『松庵の本木』がブランド

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 竹は私たちの日常生活にとって大変身近な存在だった。縄文時代の遺跡から竹製品が出土しているそうで、それほどの昔から私たち日本人は竹とともに暮らしてきた。様々なザル、カゴにはじまり竹竿、扇子、団扇、物差し、竹トンボ、竹馬などなど、身の回りにあった竹製品を次々に思い出すことができる。ところがいつの頃からか、身近にあった竹製品の姿が見えなくなってきた。竹トンボや竹馬のように子供の遊びの対象にすらならなくなったものや、台所にあったザル、衣装カゴのように日常の生活の中で使われなくなったものも多く、竹製品は、プラスティック製品の登場で消えていった。

 本木文平さんは、竹職人の父利喜蔵さんと二代にわたって、杉並区松庵で竹にかかわる仕事をしてきた。今回は 本木さんに、竹をめぐるいろいろな話をお聞きしようと思う。

竹は孟宗竹と真竹

本木さんはいくつのときから竹にかかわる仕事を始められたのですか
「学校出てすぐ、父親の手伝いということからはじめたから、18歳のときになるかな。昭和8年生まれだから、昭和26年ごろということになるね。主に、私は植木屋さんを相手に竹材を仕入れて売っていて、父が竹カゴの職人だった。その頃はね、松庵小学校はまだなくてその辺は、岸野さん、栗原さん、窪田さんの土地で、孟宗竹の藪だった。そのもう少し先に行ったところの栗原さんの土地には真竹が生えていた。その竹を譲ってもらってカゴを作っていた。細工に使うのはこの二種類。孟宗竹は太くて荒く割けるので、農家で使うかごに向いているの。豚カゴといって豚を入れられる大きなかごができた。高さが1m2,30、長さが2m、幅がこのくらいかな」、と広げた手の幅は1mぐらいだった。そのとき思い出したのが、江戸時代の罪人を入れて運ぶ唐丸カゴだけど、そんなものはもちろん作っていない。豚カゴより大きいのは、小学校の運動会で玉転がしに使う丸いカゴだそうだ。「真竹は細いけど粘りがあって細かい仕事に向いていた。小さいものは真竹でないとね、作れない。色の良さ、つやがあって、美しさは真竹だね。それに、垣根はいろいろあるけれど、あれは全部真竹。うちはザルも作ったけれど、カゴが専門、それでご飯を食べていた。」

竹は切り時が大事

 国内で生育する竹は600種ほどになるそうだが、本木さんは「あと竹では関西の黒竹と千葉の女竹。女竹は加工すると清水竹と名前が変わっちゃうの。女竹は密生しているんだけれども、今あんまり使い道ないでしょう」、と二つ、挙げてくれた。
 竹は成長が早く、一日で、孟宗竹で119cm、真竹で121cm伸びたという記録がある(林野庁ホームページ、「竹のはなし」)。竹は伐採する時期が大事だと言う本木さんの話を聞いてみる。「切るのは一年で一遍だけ、虫が入るからね。切り時を切(セツ)というけれども、切がいいとか悪いとか言ってね、水が上がった後がいいの。竹が眠ると言ってね、冬眠に入った頃、そうねー、11月ぐらいだね。この時期がすごく大事で、時期さえ間違えなければ虫が入らない。春、藪に入って竹に生まれた年を書いておいて、切り時が来れば自分で切っちゃう。竹は一年で伸びちゃって、後は固まるだけだから、一番いいときは三年目だね。一年目のは新子というんだけれど、柔らかくて折れやすいから、カゴの縁をまくのに使うぐらい。四年、五年も経つと、つやが無くなってきて使えない。竹は面白いもんで、日当たりのよいところに生えているのは、こわくなってよくない。硬くなって割れてきちゃう」。

竹の虫を食べる

 いま昆虫食の話題を、雑誌などで見かけるが、本木さんはこの竹の虫を食べたことがあるそうだ。「竹に入る虫というのは、鉄砲虫と言ってたけど、食べるとうまいんだよね。虫に詳しくないけど、大きくなったらカミキリムシになるんじゃないかな」。ネットで「竹 害虫」と入れて、調べてみると、竹の害虫としてタケトラカミキリとベニカミキリが出てきた。白いイモムシのような幼虫からさなぎを経て、この成虫になると説明されていた。写真を見る限り、食べるのは幼虫の方だろう。味は確認していないが、ミャンマー料理では竹虫が調理されるようで、レストランのメニューの写真によく似ている。関心のある方はレストランで味わってみてはいかが。パンダは竹を食べますねと聞くと、「葉っぱだけじゃなくて固いところも食べるんだよね。何の栄養があるのかね。人間は竹の子を食べるけど、うまいのは孟宗竹ので、真竹のは苦いんだよね。だから食べない」。真竹は苦竹とも書かれ、ニガタケともよばれる。話を本題に戻そう。
そうやって切った後、カゴになるまでの手順はどうなるのですか。竹は木材のように寝かしておくのですか。
「竹はたくさんは要らなくて必要な分だけ切ってくればいい。採り過ぎても無駄になるだけだ。この近所の竹藪で間に合っちゃう。一人の職人が使う量は知れてるからね。日陰に置いておくけども、あんまり時間がたっちゃっても使い物にならない。そこが木材と違うところだね。一年も二年も置いとくなんてことはしない。そこでカゴを作るとなると、一本の竹を割って、さらに四枚に裂く。これを竹ヒゴというけど、一本の竹から竹ヒゴが何十枚ととれるからね。何本も要らない。竹ヒゴは、一枚目から四枚目までそれぞれ特徴があって、一枚目の皮が一番良くて、だんだん固くなってくる。そして表、裏をちゃんと保っておかないといけない。表裏を逆にするとだめなの。それを編み込んでいってカゴにするわけだ。ここが職人の腕の見せ所だね。」
できたカゴを買うのは地元松庵の農家ですか?
「そうね、松庵の農家が売り先で一般の家庭は、昔は使ったでしょうけど、そんなに使わないから。今カゴ製品はビニールになってしまったから、カゴ屋はもういないでしょ。農家もほとんどなくなってしまったから、カゴを買う人もいなくなった。カゴはね、雨ざらしにしたりしないで大事に使うと、何十年も持つの。そうすると売れる数も減って商売としてはうまくないけど、粗末に扱われるのを見るのはやだね」、と職人としての父の気持ちを代弁するかのようだった。

竹職人の利喜蔵さん

少しお父さんのことをお聞きしたいのですが…。
「父は、大正の終わりころ小金井(栃木県)から松庵に来て、岸野さんに家を借りて職人としてスタートした。明治37(1904)年の生まれだから、21か2のときになるね。日が出る前から暗くなるまで、そして暗くなっても働いていた。一日三~四時間しか寝てなかったんじゃないかな。そうしないと食べていけなかった。その頃、職人の手間賃が日に一円五〇銭ぐらいだったんじゃないかな」。当時(大正15年)の喫茶店のコーヒーが一杯一〇銭、ビールが一本四二銭だった(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。「職人の稼ぎは少なかった。今にして思えばよく食べて行けたね。オヤジは大変だったろうと思うよ。だから子供を職人にしようとはしなかった。学問を身に付けろという考えで、学校に行かせてもらった。それで、私は竹を四枚にわることもできない。簡単そうに見えるだろうけど、素人には手を出せない。私はもっぱら竹材の仕入れと販売を受け持って、オヤジの手伝いをしたわけね」。
 本木さんは、お父さんの修業時代の話を思い出して、職人になる苦労は並大抵のことではないと次のように話してくれた。「父は小学校を出ると修業に出たわけ。はじめは子守と雑巾がけだ。なかなか竹材や刃物に触らしてくれない。危ないしね。それからだんだんと簡単なことからやらせてくれる。親方が、よし、独立しろというまでが、修行だ。つらい仕事に耐えて一人前で、途中でやめていく人が多かった。奉公に十年はいかないと職人になれない。そんなこんなで一人前になっても、大変でしょ。仕事は、手間のカタマリみたいなもんだから、そんなに儲かるなんてことはないし、土をこねて茶碗作るにしても、名人という評判をとるまではもっと大変だ。大概の職人は、歯食いしばって頑張って、身体、使って来たから、歳とると歯がないの。自分が言うのも変だけど、立派な父親だったね。飲むのが好きだった。55のとき倒れて、働くのをやめた」。
本木さんのお店は何という屋号でした?

「そんなのないの。店の名前はないし、看板もないの。『お前の作るかごはいいな』と言われるのが宣伝であり屋号なの。『松庵の本木』で通っていた。信用が大事で、すぐ壊れるような、いい加減なものを作ったら生活ができなくなっちゃうから、命懸けだ。ここで駄目になったからって、知らないところに行ったって食べていけないんだから、人との付き合いは大事だ。父は人から受けた恩は決して忘れなかった。竹を譲ってもらったりして、松庵の地主さんに大事にされたおかげで、食べてこれたので、地主さんには頭が上がんない」。恩の大切さを強調する本木さんは、「今の時代、恩や感謝という言葉が無くなっちゃった」、と悲しそうな表情だった。

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お父さんの時代、竹屋さんというのはどのくらいあったのですか?

「大体、村ごとにカゴ屋はあったね。久我山、高井戸、松庵、関前とかに一軒づつあった。ある程度離れてないと、商売はうまくいかないよね。数えたことはないけど、農家が百軒以上ないとやっていけないんじゃないかな。さっきも言ったようにカゴは大事に使えばもつから、そんなに売れるものじゃないしね。沢山作って、今度は市場に持って行っても買いたたかれちゃう。安くても仕方ないから売ってしまうんだよね。うちがこの辺りで最後のカゴ屋だった。この商売はね、ビニール製品がはびこってきたときにもう、駄目なんです、負けちゃったんです。それに跡継ぎもいないしね。見込みがないって、そう思っていたから、仲間が止めていくのを見ても寂しくなかった。私は仕入れ販売をしていたから何とかやってこれたけど、とうとう力尽きて竹の仕事を止めよう、と思ったのが平成20年頃だった」。
本木さんはお父さんの手伝いをするかたわら、文房具店を始めたのですか?
「よく知ってますね」、と尋ねられたので、以前、『西荻春秋』に金田一先生に登場していただいた時、本木さんの文房具屋さんによく行った、という話を聞いたものですから、と答えると、嬉しそうに話を続けてくれた。「あ、そうなんですか。松庵小学校ができたときに始めたんですよ。私が高校出てすぐに始めたの。今の文房具屋と違って何でも売りました。よろず屋だね。運動足袋なんかも扱ったけど、運動会のときの一回限りのもんでしょう。ノート、鉛筆はもちろんだけども大きな紙とかね、いろいろあった」。松庵小学校は、開校は昭和27年4月だが、他の小学校に間借りしていて、松庵の現在地に校舎ができて移ったのは同年9月のことになる(同小学校同窓会ホームページ)。

話終わって、少し竹のうんちく

 私たちと長い付き合いの竹は、はじめに述べたようにいろんな形で利用されてきた。食用にされ、道具を作る材料にされ、そして竹材としてだけでなく皮も使われる。子供のころ、おやつ代わりに梅干しを皮で包んで、しゃぶっていた思い出を持つ方も多くいるのではないだろうか。ちまきは笹の葉で包んでいる。肉屋さんは肉を竹の皮で包んで売っていた。「お弁当のおにぎりもそうだった。竹には殺菌作用があるからね、食品関係にもいろいろと使われたね」、と本木さんは懐かしそうに話す。
 空気も殺菌されるのか、竹林に入ると、何か清々しさを感じることがある。気持ちが洗われるような気分である。スッと一風吹いてくると、思わず姿勢を正したくなるような、まさに「地上にするどく竹が生え」た、静謐な感じがする。大げさに言えば神社のような聖なる場所に来たと思わされるのだが、そんな経験はないだろうか。誰もが知っている『竹取物語』では、竹の中からかぐや姫が生まれるが、彼女はこの世の人ではない。月に帰るのだから月の人、つまり天にいる存在、聖人が竹林で生まれる。竹林はそういう場所だった。「竹林の七賢」は世俗に背を向けて、竹林に入って清談にふけった、という故事もある。そんなことをあれこれ想うと、松庵の竹藪が消えてしまったのは、恩や感謝の言葉がなくなってしまったという本木さんと同様、悲しく寂しい気持ちにさせられた。桜並木の保存を言うなら誰か竹藪の保存に乗り出してくれないかな、と思う。地震のときにも役に立つのだから。小学校の南側には梅の木がたくさん集まっていて、季節にはきれいに咲きそろう。近くに竹藪を復活させてくれれば、松庵の竹藪に梅となって縁起もいいのだけど…。
 ところで竹はイネ科の植物だが、木なのか草なのか、どちらだろうか。専門家の間でも意見が分かれるそうである。異質なものをつないだという意味で、「木に竹を継いだような」という表現を使うことからすると、竹は木の仲間でないような気もする。『古今和歌集』に次の歌がある。「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの はしにわが身はなりぬべらなり」(雑歌下)。桓武天皇の女、高津内親王の歌と注が付けられているが、平安時代にすでにこのように思われていたのが面白い。これに対して現代、世界的に有名な竹博士である上田弘一郎京都大学名誉教授は次のように力説されていて、さらに面白いので紹介すると、「竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だ!」そうです。
 後日、養鶏家である窪田幸子さんの指摘によると、唐丸カゴの唐丸とは鶏の一品種だそうで、そもそも、その鶏を入れるかごを唐丸カゴと呼んだそうです。罪人を運ぶカゴは、形がそれに似ているのでその名がついたということでした。
 鶏と言えば伊藤若冲の名が浮かぶ。『若冲の描いた生き物たち』(小林忠ほか、学研プレス)のなかで、「紫陽花双鶏図」の解説に絶滅した大唐丸、現存する唐丸の話題が紹介されている。「…若冲の絵に描かれているもののなかには、大唐丸とおぼしきものが多く、絵画的価値だけでなく、家禽史の資料としても貴重なものといえる」とある。
文:鈴木英明
写真:澤田末吉
取材日:2018年5月28日
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『喜久屋』、上野山圭祐さん、頑張れ

西荻春秋記事 『喜久屋』、上野山圭祐さん、頑張れ

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 フードショップ『喜久屋』は、昭和20年(1945年)の開店当初から南口の『こけし屋』、北口の『喜久屋』と西荻人から親しまれ、戦争で荒廃した社会をハイカラにする牽引役を果たしてきた。最近、その『喜久屋』の向かいにある北口駅ナカに同業大手『紀ノ国屋』が参入してきた。
『紀ノ国屋』は、明治43年(1910年)に青山で果物商としてスタート、昭和28年(1953年)、それまでのザルで代金のやり取りをする「留め銭」と呼ばれた手法から、レジスターで精算する新しい買い物スタイルを導入、日本初のセルフサービス・スーパーマーケットを青山に開店した。その後、パン食を始めとして、これまで日本にはなかった舶来食品の販売に力を注いだ。

 取り扱い品目は、まさに『喜久屋』と競合する。会社規模や資金面からすると敵う相手ではない。これまで大黒柱として店を切り盛りしてきた代表取締役の上野山圭祐さんも高齢になり、『喜久屋』にピンチが訪れた。

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顧客と寄り添う『喜久屋』の存在

 圭祐さんは、横浜市鶴見区の出身、戦時中は縁故疎開で信州に暮らした。帰京後、叔父が経営する阿佐ヶ谷の書店を手伝いながら松の木中学の一期生として学校に通った。ちょうどその店の隣にあった食料品店『喜久屋』を経営していた吉田清蔵さんの目に誠実に働く圭祐さんの姿がとまり、西荻の『喜久屋』への就職が決まった。

『喜久屋』社長の上野山喜吉さんは、戦後復員して故郷和歌山からみかんを当時神田にあった市場に卸していた。その他にも西荻窪でパチンコ店、映画館、証券会社など、手広い事業を展開するする経営者だった。圭祐さんは、そんな喜吉さんの下で働くことになった。

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 ここでも彼の誠心誠意の姿勢は変わらず、喜吉さんに気に入られ上野山家の娘婿として迎えられ、新たな店を任されるようになった。どのような店にするかの構想を練るため、青山の『紀ノ国屋』、銀座の『明治屋』、新宿の『高野』などを参考に見て回り、商品の種類、並べ方、接客の仕方など、商売の基本を勉強した。

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 しかし、何分戦後で物資の乏しい時代なので店に並べる商品がない。配給された小麦粉を集めてパン屋で製パンしてもらい、その工賃を貰って舶来の缶詰を購入、北海道から乾燥した数の子を求めるなどして少しずつではあるが商品が店頭に並ぶようになった。時の経過と共に品揃えも充実し、西荻という土地柄を生かして、いち早くウイスキー販売の許可を取得、舶来ウイスキーの販売を始めた。
「家庭の食卓をどのように演出するかを想像し、それに適したお酒、料理、食材をそろえるようにした」と圭祐さんは語る。そして、顧客との会話に耳を傾け、バター、チーズ、オイル、調味料、缶詰、ワイン、日本酒、ウイスキー、コーヒー、パスタ、菓子や材料など、ニーズに応えるよう努めた。
 関東では珍しい関西や東北の菓子なども店に並べた。今では入手が難しい伝統的な商品や家内工業的に作られた手作り菓子も扱った。日本の古き良き文化を大切にしたいという思いからであった。今でも店内で金花糖の販売は人気の的だ。金花糖(きんかとう)は、煮溶かした砂糖を型に流し込み、冷やして固め、それに食紅で彩色した砂糖菓子である。江戸時代に南蛮菓子を真似て作られたものとされ、結婚式の引き出物や節句祝いなどに用いられる菓子である。
 まずは顧客の声を大切に聞き入れ、品揃えをする。そして、すぐに商品を調達するフットワークの良さこそが『喜久屋』の真骨頂である。東京には地方からやって来た人が大勢住んでいる。そういう人達から「『喜久屋』に行くとこういう物が在る」との口伝えによって店は発展してきた。
 インターネットブログで「クリーミーでまろやかなブルーリボン付ビン入りマヨネーズをもう何十年も愛用していますが、今でも一番おいしいマヨネーズだと思っています。このマヨネーズだけは『喜久屋さん』で購入したい」というこだわを持った熱烈なファンが『喜久屋』にはいる。昭和に生きた人々の思い出に寄り添いながら歩んだ『喜久屋』が浮かび上がる。

商店街の圭祐さん

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 上野山さんは『喜久屋』だけではなく、西荻窪商店街青年部も立ち上げた。
『駅前盆踊り大会』や『大売出し』など、いろいろな企画を立案した。なかでも有名なのが『ハロー西荻』、毎年5月に行われる西荻の名物イベント、街中で音楽ライブやパフォーマンスが行われ、ウォーキングやスタンプラリーの抽選会で豪華な景品が当たることでも知られる。圭祐さんは、この『ハロー西荻』の名づけ親でもある。
 圭祐さんの功績は、それだけに留まらない。彼は消防団員としても活躍、こんな地域への熱意に信頼を寄せる近隣の私立保育園など50か所から、「昼食などの素材を配達して欲しい」との注文が相次ぎ、長い間続けてきた圭祐さんだったが、高齢であるのと人手不足もあって、最近は同業者にその仕事を分配するなどして数を減らしている。
 従業員には上野山さん自身が率先して手本を見せ、無言のうちに後姿で仕事を教える。まるで親子のような関係だ。従業員は「尊敬しています」と話す。
 圭祐さんは「西荻窪は生活環境としては、とても素晴らしい場所。でも、商売には厳しいところもある。そんな立地だからこそ、お客様との対話を楽しんで大事にすることが私個人にとっても街全体にとっても重要なことだと思います」と語る。若い頃、参考にした『紀ノ国屋』が駅前に参入してきた。「時代の流れはどうしようもない」圭祐さんの表情は達観していた。

「お客さんが何を考えているのかを見極め、欲している商品を揃えていく。お客さんとの人間関係を築くことが個人経営で最も大切な要素です。商品の中身についても積極的に会話して商品研究をしなければいけません」と説く。圭祐さんは82歳になった今も現役、住んでみたい町西荻窪を支える原動力として欠かせぬ存在だ。西荻窪の文化を消さないために。頑張れ、『喜久屋』、上野山圭祐さん。

文:澤田末吉 写真:奥村森

参考資料:紀ノ国屋ホームページ

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金田一秀穂先生の西荻今昔

西荻春秋記事 「金田一秀穂先生の西荻今昔」

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 松庵生まれの国語学者金田一先生に西荻窪についてお話を伺うことにした。わざわざ松庵舎にお出で頂けるということなので、待ち合わせはJR西荻窪駅の改札口となった。失礼のないようにと約束の時間より早めに着いた私たちの前に、先生はすぐに現れた。先生は「アリャ」と思われたそうだが、もちろん早く来てよかった、と安心している私たちが気付くわけはない。早速、松庵舎に向かった。途中の道は先生が子供時代に駆け回った場所だ。
 住宅街を歩いていると、「この付近には大きな家があったけどみな小さな家に分けられちゃったなー。この近くに大きな桜の木があったんですけど、どうなったんですかね?」、と聞かれて、落ち葉や虫の手入れが大変で伐採されてしまった、と言う私たちの返事に残念そうだった。歩きながらいろんなことが思い出されるようだった。先生がひときわ懐かしそうにみえたのは、松庵舎の玄関前で五日市街道を挟んだ斜め向かいの三軒長屋を見た時だった。「あそこに竹屋さんがあって、本木さんというお店だったけど、文房具も売ってたんですよ。よく買いに行ったな」。お気に入りのお店だったそうだ。今は建物だけが残る。この近くにはもう一軒、松庵堂という文具屋さんもあったが、今はそこもない。

松庵と自転車

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 先生は昭和28(1953)年5月の生まれ。同35年に松庵小学校に入学した。中学は西宮中学校。この小学校の校歌が父上の春彦先生の作詞だそうで、この校歌ができるまでの興味深い話をお姉さんの美奈子さんが、同小学校の同窓会で話されているので関心のある方はこちらのサイトを見て下さい。

http://shouanshou-dousoukai.sblo.jp/s/article/170184036.html

「小学2年生、3年生のとき入院していたことがあって、健康な子供ではなかったけれども自転車で駆けずり回っていました。よその畑を通り抜けても誰に文句を言われるわけでもなく、のんびりしてましたね。自動車も危ないことなくて、道が舗装されていないから土ぼこりがすごかった。それが、ある日五日市街道が舗装されてびっくりして、家の前まで舗装されて愕然とした」。

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「隣の家が辻さんち(現在の一欅庵)で、うちと庭続きだったからよく遊びに行ったけど、そこの大きな防空壕で遊んで怒られたことがあった。危ないから大人は止めるでしょうけど……。そういえば中央線が土手の上を走っていたころ、線路にくぎを置いて叱られたこともありましたね。まさか電車が止まるとは思ってもいなかった」。そのころ、防空壕に入って探検ごっこをしたり、線路にくぎを置いたりする遊びはスリルがあって、子供たちの好きな遊びだった。恐ければ恐いほど思い出は鮮明だ。
「小学校の通学区域のそとにいくことは恐かったですね。武蔵野市との境の道は越えることはほとんどなかったです。心理的なバリアーみたいなのがあったのかな。ですから神社の縁日でも松庵稲荷神社はいったけれども、春日神社はちょっと遠いし、区域外の吉祥寺の武蔵野八幡宮にはいかなかった。久我山にもあったけど何か違う、怖いところでしたよ。不良がいてお金を取られるようなね。そういう危ないところでした。中央線の線路の向こうにあった薄気味の悪い道、知ってるでしょう?」。突然聞かれた。初めは聞いている私たちの誰も、どの道のことかわからなかった。

薄気味の悪い道と沼

「線路の向こうでさ、行き止まりの道でそこがロータリーになってるの。ただの路地なんだけど子供心にわけのわかんないみちで、誰かの屋敷跡かもしれないけど、幽霊が出そうな感じで気味悪かった。今のうち写真撮っておいた方がいいよ。なくなっちゃうよ」、と言われて翌日、現場に出かけてみた。確かに子供だったらそんな感じの道ではあった。ここは松庵小学校の通学区域の北の端になるところでもある。念のため法務局で調べてみると、ロータリーの歴史は詳しくはわからなかったが、明治後期、松庵村の農家であった窪田太左衛門が畑の一部を姉の夫に譲ったものだとわかった。お勧めに従って写真は撮っておいた。

 昭和30年代は屋敷跡ばかりでなく空き地や原っぱ、池などがあちこちにあって、子供たちの格好の遊び場だった。「池といえば、この道の近くだけど、吉祥女子高に行く途中に得体のしれない沼があったの。自然に湧いている池かどうかわからないけど。荻窪辺りは湧水が多くて、よそと違って水がおいしいといわれるんだよね。裏手に大きな池のあるお寺もあったんだけど、この間Google Earthで見てみたけど分かんなかったな」。この沼は現在の地図には載っていないので、杉並区立郷土博物館で調べると『杉並の川と橋』(研究紀要別冊、同博物館発行)に収められている論文「杉並の川と水源」(久保田恵政著)に次のように書かれていた。「鉄道施設用土採取跡地の池は、高円寺、阿佐ヶ谷の他に、西荻窪駅の西に線路を挟んで二ヵ所あった」。そのひとつが松庵窪(女窪)で場所が西荻北3-9と記されていて、先生の話している辺りになる。これは地元の昔をよく知る人で、甲武鉄道(現中央線)を走らせる土手を作るのに、必要な土砂を採った後のくぼみに水が溜まった池だ、と話す人もいて、おそらく湧き水ではないのだろう。

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松庵窪(女窪)付近から線路に向かって下っている坂と本田東公園

 ただ、現地に行ってみると、この辺りが吉祥寺方向に下がっていて、ここよりさらに低くなっている場所を見つけることができる。線路沿いの北側にある本田東公園だ。杉並区と武蔵野市との境界の道をあいだにして市側にある。ここが、雨が降るとよく水が溜まり、池のようだったという地元の人の話があって、あるいはこちらが「得体のしれない沼」だったのかもしれない。

恐い事件と懐かしい店々

「怖い話だけど、松庵稲荷のそばの交番でお巡りさんがナタか斧で殺されるという事件があったんですよ。犯人が捕まらなかった」。これも調べてみると、昭和41年7月27日未明の事件で、27日付の読売新聞朝刊に「交番の巡査殺さる」という5段見出しの記事で第一報が、同日の夕刊で詳細が報じられている。その交番は今はない。先生が13歳の少年の時になる。
 なにやら漫画の『金田一少年の事件簿』みたいな話題になったところで、金田一姓の読み方について耕助探偵にも登場してもらう。いまでこそ金田一姓はほとんどの人が正しく「キンダイチ」と読めるだろう。しかし昔はそうでなかったと、春彦先生は嘆かれていて、「戦後は、金田一耕助探偵のはでな活躍で、キンダイチという苗字をはじめから読んで下さる方がふえたのはありがたいことで、作者の横溝正史さんに千金を積んでも感謝したい気持である」、と『出会いさまざま』(金田一春彦著作集第12巻)に書かれている。余談でした。
「仲通りに、駅へ行く左側に豆腐屋さんがあって、向かいがこんにゃく屋さんでした。いつごろか、豆腐屋さんが火事を出して、それが生まれて初めて見た火事でしたね。梅村質店の子が同級生でした。そばにある床屋の佐藤さんで、雑誌『少年』の鉄人28号や鉄腕アトム、ストップ兄ちゃんなどの漫画を読んだりしてました」。
「昔のことは言い出したら、ああ、キリがない。時間がいくらあっても終わらないですね。『キングコング対ゴジラ』を見に行った映画館・西荻セントラルもボーリング場になって、それも今はなくなった。映画館の近くに高級プラモデル屋さんがあって、レーシングカーで遊んだこともあったな。駅の南口に向かう銀座通りに、不思議なことに時計屋さんが五軒もあった。おじいさんが奥の方にいて仕事していた。好きでよくのぞいたけど、そのお店もいつの間にかなくなっちゃった。この通りと五日市街道の角(今の広島カンランのところ)にヤマザキパン屋さんがあって、その隣がクリーニング屋さん、その数軒さきが食堂だった。ちょうど関東バスの停留所前だったと思います。オムライスとかよく食べたけど僕の食堂のイメージはこのお店ですね。五日市街道沿いには、魚屋さんとか好きで通った本屋さんとか、お店屋さんがたくさんあったけど、ほとんどなくなっちゃたですね。残っているのは高橋菓子店ぐらい。昔のことを知っているというのは、いいことなのか悪いことなのかよく分かんないですよね」。

西荻の今と三代目

 話題を今に戻して、西荻窪の魅力について語ってもらうことにした。「久我山のほうになっちゃうけど、ちょっと木が繁っていて武蔵野の雰囲気が残っているところ、西荻にもあるけど緑の多いところが好きですね。この間読んだ橋本治さんの本で彼が言っていたけど、西荻は隠れおしゃれタウンなんだそうですよ。そんなこと言わなくても、高円寺や阿佐ヶ谷もおなじだけど、駅前に安くておいしい焼き鳥屋があるのがいいですよ。西荻だと戎ね。狭くて小さくて昔風のバラックで崩れ落ちそうな雰囲気がいいですよ。いいよね、このいい加減さが、駄目さが好きですね」。

「そうそう、このことは言っておきたいんですけど」、と強調されたのは、「西荻に住んでいていいなと思うのは、金田一家三代目でよかったなと思わされることですね。床屋さんに行くと父の髪型がこうだったとか、すし屋で父の好みがこれこれだったとか話をされると、浮ついた名前だけの関係という感じでなく、なんか地に足の着いた安心したお付き合いができて、この地に生まれた三代目ということを実感できることがうれしいですね」。

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 今の日本語の状況について尋ねると、「若い人は若い人なりに自分に合った言葉を使っている。間違っていても自分の気持ちにぴったり合う言葉を使っている。それはどうしようもないことですね。でも、大人は違う。間違った言葉を使ってはいけない。大人は注意してもらえないですから。政治家の言葉使いはひどいものだし、団塊の世代はたかが言葉じゃないかと思っているようで、どうしようもないですね」、とこれまでの話ぶりとは違った、きっぱりとした口調でいわれた。

 取材が終わるころ、「今日は西荻なので早めに行って、水のおいしい西荻でうまいコーヒーを飲もうと、楽しみに来たのに、降りたらもう来てるんだもん。アリャと思って、行きそこなっちゃったよ」、と言われてしまった。おいしい喫茶店があるのも西荻の魅力の一つですね。お会いしたとき、そうとは知らず松庵舎に案内してしまい失礼いたしました。よく通った喫茶店ということなので、帰りに寄られたことと思いましたが、戎かもしれないという声もありました。先生、早く行き過ぎてすみませんでした。

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文: 鈴木英明 写真: 澤田末吉

取材日 2017年6月26日

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西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん

西荻春秋 「西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん」

縁ある同士、必ずどこかで結ばれる

 ここに一冊の本がある。昭和41年に読売新聞社から刊行された写真集「人間国宝」。昭和23年に写真師により結成された新生写真協会メンバーが撮影した写真だ。

 人形浄瑠璃・文楽太夫、十世・豊竹若太夫の楽屋から退席するさりげない姿。人形浄瑠璃・文楽人形、二世・桐竹紋十郎の緊張感漲る舞台と楽屋での一枚、自宅で撮影した人形を動かす写真は斜逆光線を生かした写真師ならではの傑作。京都で撮影した染織・有職織物・羅の喜田川平朗の品格溢れる肖像。滅びゆく玉藍のユカタを墨田区の自宅で切なく制作する染色・長板中形の清水幸太郎。文京区にある自宅工房の空気を巧みに表現した蒔絵師の松田権六の仕事場風景。

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上段左と中央は清水幸太郎、右は桐竹紋十郎 下段左から豊竹若太夫、松田権六、喜田川平朗(読売新聞社発行『人間国宝』より)

 これらは新生写真協会メンバーのひとりで、昭和七年に西荻窪で写真館を開業した故・高木文二さんの作品である。
 写真師、あまり聞きなれない言葉だが、写真館のカメラマンをそう呼んでいたのである。今ではデジタルカメラで誰もが簡単に写真を撮ることが出来るが、フィルムを使うアナログカメラ時代には、写すこと自体が至難の技であった。上流階級から庶民に至るまで、写真館での記念写真は人生の大切な記録として浸透して行ったのである。
 西荻春秋の取材先を探すため、いつものようにスタッフは西荻窪の街をぶらりぶらりと歩いていた。すると、スタッフのひとりで生粋の杉並っ子の窪田幸子さんが住宅玄関先で婦人と話を始めた。その住宅のある場所には昔写真館があった。窪田さんは写真を撮ってもらった思い出があり、婦人は、そこの写真師の高木文二さんの子息、昇さんに嫁いできた都さんだったのだ。
 窪田さんには子供の頃から成人式に至るまで、高木フォトスタジオで記念写真を撮って貰った思い出があった。社会人になってからは、言葉を交わす機会はなかったが都さんは憶えていてくれたのだ。写真師は、自分で撮った写真は全て記憶しているという。当時、都さんは顧客の髪や衣服を整える手伝いをしていたのだが、義父の文二さんを尊敬していたこともあり、懸命に仕事をしていたので写真師に負けず劣らず鮮明に憶えていたのだろう。

写真館のある風景

 昭和12年、昇さんは文二さんと輝子さんの長男として生まれた。幼少期、彼は祖母にとりわけ可愛がられた。幼稚園通いはいつも付き添い、怪我をしないようにと50cmの高さから飛び降りることもさせないほどだった。そんな祖母が口癖のように昇少年に伝えた言葉があった。それは、「親の職業から離れたら駄目」であった。
 小学校は近くの高井戸第四小学校に通った。しかし、昭和19年、 空襲で校舎が焼失、生徒達は高井戸第二小学校と桃井第三小学校に別れて授業を受ける混乱期を迎えた。だが、有難いことにスタジオと家は焼けずに残った。
 高校は日大二高へ、クラブ活動は美術部に参加した。美術部主任であった日本画家・上林教諭から構図や空間表現を学び、創作に関心を抱くきっかけとなった。そして、大学は日本大学芸術学部写真学科に進んだ。これには文二さんの大きな期待が込められていた。昇さんを「写真館の跡継ぎにしたい」との強い思いがあったからだ。当時の教授陣は少数ではあったが、報道写真家の草分け、渡辺義雄、写真芸術論や写真史の第一人者、金丸重嶺など、優れた指導者が名を連ねていた。
 ある日、昇さんは渡辺教授に「どうすればよいのですか」とノウハウについて質問したことがあった。すると教授は「僕が言うことじゃないから、盗んで上に行きなさい」と答えた。先輩の後姿を見て学ぶ時代だった。
 写真界は木村伊兵衛と土門拳の全盛期、そしてアメリカ広告写真が流行。写真家は、若者にとって一躍憧れの職業となった。同期生に日本写真家協会会員で作家活動を現在も続ける立木寛彦(たつきひろひこ)がいた。彼の実家も写真館であったが、作品づくりがしたくて創作の道を歩んだ。昇さんも、世に認められてからも助手にシャッターを押させない土門拳の姿勢に尊敬の念を抱いていたが、写真家への道を目指すことはなかった。
 大学を卒業すると社会勉強のため、浜松町の広告写真スタジオで修行した。流行最先端の職場ではあったが、父の仕事を継ぐ覚悟に迷いはなかった。創作活動は休日に建築写真を撮りに出かけるのみであった。
 助手として下準備をし、あとは文二さんがシャッターを押せばよい状態にセットアップするのが、昇さんの仕事だった。その他に西荻窪駅前の「こけしや」や教会での結婚式撮影も請負、多忙な毎日を過ごしていた。

 ある日、縁あって都さんと出会い、結婚することになった。父と親しかった写真館の草分け、写真師で肖像写真家でもある吉川富三が二人を祝福して婚礼写真を撮ってくれた。吉川は自然なライティングを駆使する写真師として知られていた。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-7-1024x579.png です左は祖母と両親の遺影を掲げる昇さん、右は昇さんと都さん

 吉川との出会いは、昇さんの写真人生に大きな影響を与えた。写真師は創作写真家に比べると、芸術家としての評価が恵まれない傾向にあった。吉川は著名人の肖像を写真集にすることで、地位を高めようと努めた。昇さんは、建築を主題に独自性を強調しながら、写真館組合が発行する雑誌「JPC」に掲載したり、毎年開催される日本文化協会全国展・関東写真家協会展に出品したりと、大いに吉川からの感化を受けた。
 文二さんは、第68代総理大臣・大平正芳、20代の頃の俳優・森繁久弥、子役時代の女優・松島トモ子、久我山に在住していた洋画家・東郷青児、松庵に在住していた文学者・金田一京助、女優・京塚昌子などの肖像を残している。杉並区高井戸に住んでいた歌人の木俣修は、文二さんの作品を「これは本当の芸術だ」と称賛した。

 昇さんも、三笠宮崇仁親王、日本経済団体連合会第4代目会長・土光敏夫などを撮影している。土光は「撮った写真を全部見せろ」という。カメラマンは、よい写真を選んでプリントして渡すのが常識だ。安定した実力がないと要望に従うのは難しい。昇さんは覚悟を決めて見せることにした。土光は「この写真気に入ったから買う」と言う。売る訳にいかないから、嬉しさもあって寄贈したという。都さんは「私、土光さん大好き、ぴしっと筋が通っていたから」と褒め讃える。よい写真には人柄まで写るものなのだ。写真師二代、見事な仕事ぶりである。

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上段左から東郷青児、松島トモ子、金田一京助 下段左から京塚昌子、土光敏夫、森繁久弥 (杉並区立郷土博物館所蔵)

写真館が消えた日、時代も変わった

 昇さんと都さんは、建築を学んだ長女・朋美さんから古くなった家の再建提案を受けた。昇さんは、文二さんの写真館を守りたい一心で抵抗してきた。しかし、東日本大震災の揺れは尋常なものではなかった。「お母さん、絶対危ないからお父さんを説得して」と娘さんから懇願された。平成25年、ついに意見を受け入れた。

 昇さんの気もちを察した長男・昭彦さんから「せっかくだから、お父さんの写真を飾ったら」と居間にギャラリー、玄関にショーウインドーが設けられた。ショーウインドーの写真はスタジオを知る者には懐かしく、知らない者には謎めいたものとなった。

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玄関先のショーウインドーと居間のギャラリー

「昇さんは手間の掛らない頑固者、学生時代からずっとお父さんに尽くしてきました。一方で自分の世界も遠慮しながら貫いてきた。昇さんにとっても、スタジオが無くなれば縛られることなく、好きな写真を自由に撮ることが出来るのでは、私は賛成、よかったと思います」と都さんは語る。
 最近のカメラ事情について「デジカメは簡単、数打ちゃ当たるだろうって、趣味で写真団体に参加する友人が言うけど、作品を見ると数ある内の一枚だってすぐわかる。僕の考えとは根本的に違う。彼には何も言わないけどね、今は写真サークルの6割が女性で、誰でも簡単に写せることを望むから」と昇さん。
「昇さんの気もちはわかるけど、年取ってきた人が楽しむという考え方もあるでしょう。それもありかなって思うの。手伝いだけで写すことをしない私から見ると、極めるという以前に下手だからと諦めていたことが可能になって、写真ってこんなに面白いものかと再認識したのよ」と都さん。
 誰もが写せるようになると、写真館の仕事も先細りとなる。親の職業を子が継承するのも難しい時代になった。娘の朋美さんは写真センスがあり、機械にも強いから跡継ぎには最適な人材。しかし、彼女は建築を学び写真から離れた。昇さんが興味を抱いた建造物への道、これもある意味で親子継承なのかも知れない。

記録の行方

 スタジオのない生活は、昇さんを変えていった。雑誌投稿、写真展出品、コンテスト出品など、より意欲的に創作に取り組むようになった。雑誌では「最高賞の総理大臣賞受賞が目標」と積極発言をする一方、「賞より新しいものを撮ることが出来たら幸せ」と謙虚さも覗かせる。「体力と感性がある限り作品づくりをしたい。僕は、写真を撮りながら棺桶に入るのが理想」と語る。
 写真を撮るには肺と腹筋を鍛えることが大切と体力づくりに努める。昇さんは、若い頃から『弓道』をしていた。しかし、父に代わって仕事をしている内に筋肉が衰え、弓を引くことが出来なくなってしまった。それからは、弓に通ずる礼儀作法で親しみやすい『スポーツ吹き矢』にチャレンジすることにした。現在キャリア2年目を迎える。また、時間があれば長靴を履いて今川まで30分ほど自転車を走らせ、区民農園で畑仕事をする。食べきれないほどの収穫があるという。
 文二さんが亡くなった時、杉並区郷土博物館に肖像写真の一部を寄贈したことがあった。写真館閉鎖に伴って、30人分のポートレート、計58点の写真と機材一式を改めて贈呈することにした。
 写真記録というと、誰でも「動の記録」である報道写真を思い浮かべる。しかし、文二さんと昇さんの仕事は「静の記録」、さりげない毎日の積み重ねが百年後に偉大な記録となる好例だろう。

 これから杉並区郷土博物館で作品に触れるたび、ベレー帽をかぶり、洋服を茶で統一したおしゃれな文二さん、律儀な頑固者、そして謙遜の人、昇さん、親子写真師二代の姿が思い浮かぶに違いない。

文: 奥村森 写真: 高木文二、高木昇、澤田末吉

取材日 2016年9月16日

ー 肖像権許諾にご尽力頂いた方々

高木昇&都夫妻、杉並区郷土博物館、金田一秀穂様、森繁建様、松島トモ子事務所様、ギャラリー・コンティーナ様、橘学苑様。京塚昌子さんに関しては、ご遺族の所在不明のため肖像権許可なしに掲載しております。
肖像権者の方がご覧になりましたら、是非ご連絡下さい。

ー 参考資料 ー

読売新聞社 写真集「人間国宝」

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 昭和の文化人に愛された「たみ」 

及川ヤスエさんの人生

 福岡から上京してきた姉妹が紡いだ物語。
 西荻窪の居酒屋「たみ」と国立の「関民帽子アトリエ(現atelier Seki / アトリエ関)」。東京という文化の中心地に飛び込んで夢をかけた二人の物語がここにある。
 
 西荻窪駅南口から銀座通りをすすみ、郵便局の反対側の路地をまがると「たみ」はある。この辺りの店は概してそうなのだが、昼間はひっそりと目立たないのが多い。夜になるとトマリギ的な雰囲気を醸して客を魅了する。たみはそのなかでも更にひっそりと佇んでいる。
 入口の扉を押すと、視線は自然、お客の背を飛び越えてヤスエさんに向かってしまう。言葉を二、三交わしてから席に落ち着いて、おもむろに相客に挨拶をする。そんな雰囲気なのである。ふらりと店に入ってきてはおのおのカウンターに座って一人酒を傾けながら、及川さんと掛け合い話、と思うと隣、はたまた遠く離れた席とも飾ることなく議論に花を咲かせる。相応しくない客はそこにはいない。
 
 平成二四年の桜の季節。ヤスエさんは引退した。
 

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 この街には多くの“西荻らしい”と云われる店が或る。「西荻らしいとは何か?」と問うと「温かそうでつめたいまち」そう答えが返ってきた。人間、文化芸術を縦横に織込んだ「たみ」は一体どういう場所だったのだろう。
 
「こけし屋はリベラルだけど、うちは左の方が多かった。みな神経質だけれど、優しい。人を傷つけたりしないけれど信念を持っている。広い街で寂しかったから」お酒の飲めない者が脚をむけても受け入れて、良心的な値段だったのはそのようなことだったのだろう。「博識ですね」とむけると「みなお客様が教えてくれた」そう返された。
 
 北朝鮮新幕生まれ。敗戦の年、ヤスエさんは一七歳で38度線を歩いた。祖父、金子さんが家族とは別の女性を連れて大陸に渡った。どんな汽車も泊まる駅で旅館を開き、家族を故郷から呼び寄せた。朝鮮の人を使用して生活の苦労のない少女時代を過ごしたという。女学校では教室の半分は朝鮮の人で当時は日本名を使用していた。勤労奉仕で松根油を取るための根を掘ったが、暫くして身体を壊し、慰問袋を縫うようになる。
 玉音放送を聞いた時、音が大小して判らず、兵士も「がんばろうということだ」と鼓舞した。一二歳、としの離れた姉の民さんは、当時学校の先生をしていた。父はモダンボーイで玄関先に帽子を引っかけたり、ダンスを積極的に勧め、ホールで踊ったりした。お金が出来て、従兄弟も呼び寄せ学校を出してやったりもした。
 大陸で育った強さが姉妹にはあった。
 
 引き揚げは過酷なものだった。お金で案内を頼んだが裏切られたり、「休み」と言われて寝てしまい、気付いたら独りぼっちであった。泣いて何時間過ごしたかわからない。親が探しに来てくれなかったら売られていたかもしれない、と云う。
 
 引き揚げ後、九州の久留米で洋裁の勉強を始めた。父の友人が「勉強するなら東京に行きなさい」と云うので一九四七年姉妹は東京へ出る。姉の民さんが皇后さまの帽子職人でもあった平田暁夫(二〇一四年八九歳にて死去)に師事する為、姉妹は西荻窪に住まう。そして修行中の生計を立てるために社交好きの民さんがガード下で「たみ」を始める。当時珍しい九州の本物の陶磁器を置く店として文化人が集まるようになった。しかし数年を経ずして芸術家、関頑亭氏と結婚。国立に引っ越してしまう。未だ二〇代で「たみ」を引き継ぐことになったお酒も飲めないヤスエさんを心配した常連客が“七人の守り人”となった。
 
 店は何回か改装をしており、東京オリンピックの年に現在の場所に移転した。ガード下の店を改修した早稲田の有名な建築家、飯田さんの設計によるもので今とは全く異なる山小屋風。入口も現在とは逆の右側で二階にはヤスエさんが住んでいた。七人の守り人は心配して、飯田さんにかわるがわる質問をする。最初は「いらっしゃいませ」も言えなかったヤスエさんが、やめようと思わなかったのは、人と話すことが苦でなかったこと、お客様の存在が大きかった。「お客様に育てられた」と云う。
 現在の店構えは同じく早稲田の建築家、安田与佐氏によるもの。リニューアルは設計だけでなく、暖簾から飾る作品に至るまで徹底して監修。照明は現在の場所に移ってから今日まで近藤昭作氏。のれんは古田重郎氏、マッチは大歳克衛氏のデザインであった。
 
 ヤスエさんにとってお酒は二の次で奥様をなくされた方、境遇の話がしたい人、自慢話がしたい人、話が大事だった。お酒を出したくない客が来ると「出すお酒がないんですよ」云う。相客が「出してやってよ」と云ってもしらんぷり。外でお客が「ばかやろー」と叫んだりした。
 そんなヤスエさんを支えたのはどんなご主人だったのだろう。及川さんはサラリーマンだったが義姉、及川道子さんは昭和一三年、二六歳で早折した著名な女優であった。家風がとても優しかったと云う。
 

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 ヤスエさんはいま、帽子アトリエ「関民」で姉民さんのお弟子さん達、約十名の作品に囲まれて店番をしている。帽子作家として有名になった民さんのお店は、国立駅から斜め右手にまっすぐ進む道を左に折れると、その趣或る佇まいが目に飛び込んでくる。
「私だけの帽子」を探しにおとずれてみてはどうだろう。
 

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参考文献
更谷いづみ著 『帽子作家 関民 Tami’s Spirit ‐こころが動きだすヒント‐』Izumaqui 2011年
atelier Seki / アトリエ関(旧:関民帽子アトリエ)
 
ホームページ http://atelierseki.jimdo.com/
住所:東京都国立市中2−2−1
電話:042-574-1771
営業日:月、水、金曜日
定休日:不定休
営業日&営業時間は毎月異なります。お問合せください。
 
文章 窪田幸子
写真 澤田末吉
 
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