住宅街に息づく「長唄三味線」の世界

三味線で身を立てるつもりはなかったけれど……

 「三味線を弾いたことがある」という人はそんなに多くはないだろう。しかし、「三味線の音を聞いたことがない」という人もまた、多くはないはずだ。
 近世以降の日本の音楽(邦楽)を代表する楽器である三味線は、大きく3種類に分かれている。義太夫、津軽三味線、浪曲などに用いられる太棹。常磐津、清元、新内などに用いられる中棹。長唄、小唄などに用いられる細棹だ。
 その長唄三味線の名取であり、代々の地元である杉並区松庵で教室も開いているのが、稀音家一宣(きねやいちのぶ)さんである。

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稀音家一宣さん

 一宣さんと三味線の出会いは7歳頃のこと。ご近所に名取の先生がいたことで、近隣の子供たちとともに稽古を始めたのがきっかけだった。
 とはいえ、三味線で身を立てようと思っていたわけではなかった。ところが高校3年生のときに病を得て、学校も休みがちになってしまう。おかげで就職活動もできず、「それこそプラプラして」いたそうだ。そこで、幼少期から習っていた三味線を本格的にやってみようと思い立ち、先生に相談する。

 「とてもいい女性の先生だったのですが、『せっかく本格的にやるのなら、男の先生にしっかり習ったほうがよい』と言われまして。その頃の私は、三味線に男の先生がいることすら知らなかった(笑)。それで、稀音家和三助師匠を紹介されて、そこへ通うことになりました」

 和三助師もまた素晴らしい先生だったそうで、一宣さんに「NHK邦楽技能者育成会」へ通うことを勧めてくれる。これは、1955(昭和30)年にNHKが始めた邦楽演奏家育成のための講座であり、三味線や箏、胡弓、琵琶、一絃琴、笛、雅楽などの演奏者が受講したもの。自分の演奏楽器のみならず、邦楽全般の歴史や関連の知識、五線譜による合奏も学ぶことができたが、2010(平成22)年、第55期生の卒業をもって終了した。ちなみに一宣さんの時代はなんと無料だったそうだ(途中から有料になった)。

 「とにかく講師の先生方が超一流。週1回、1年間通わせてもらいました。私の親は芸事には全く無関心で、歌舞伎などにも連れていってもらったことがなかった。だから育成会で初めて、人間国宝級の方たちの演奏を目の前で聴くことができたわけです。『こんな世界があるのか!』と驚き、『こんなに素晴らしい方に稽古してもらえるのか!』と感激しますよね。それが三味線に魅せられた本当のきっかけだったと思います」

 ただ、それでもなお、一宣さんは三味線で身を立てようとは全然思っていなかった。育成会の卒業生で行う演奏会などには参加していたものの、いわゆる名取になる気もあまりなかったそうだ。

 「師匠同門の小三八先生主催の演奏会に出させていただくようになりまして。三味線はいわば趣味でやっていたのが、たまたま行き会った素晴らしい先生方に、長唄のことはもちろん、知らない世界のことをたくさん教えていただきました。それがとっても楽しかったんでしょうね」

 なお、小三八とは長唄の唄方で、古典の復活・伝承に努めた人物。1969(昭和44)年に日吉流をおこし、吉住小三八から日吉小三八に改名した。74(昭和49)年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。

 「やはり(長唄三味線の)会に入るには稀音家某という名前が必要なので、そのために取ったようなものです。師匠・和三助が、当代の稀音家六四郎のおじい様にあたる四世六四郎と仲が良かったという縁もあって、四世家元から稀音家一宣の名をいただきました。そうして、通ってくる方にお稽古をするようになり、演奏会も徐々に増えていきました。この世界は、特に若い担い手が少ないこともあって、若手の演奏家は大事にされることが多かったんです。そして、三味線を弾くには唄と鳴物を勉強しなければいけないと師匠に言われ、唄を稀音家義丸師に、鳴物を福原鶴二郎師にお稽古していただきました」

 一宣さんが所属しているのは、小三八師の流れである「道の会」(正式名称は「道」)、「東京稀音会」、「長唄伝承曲の研究会」、「長唄稀曲めぐりの会」である。
これら所属している会の定期演奏会などに参加するほか、長唄協会が主催する演奏会も定期的にあるそうだ。長唄協会のHPを見ると、長唄の演奏会が実はたくさんあることがわかる。プログラムも見られるので、その中に一宣さんの名前を見つけることもできる。

 「流派がたくさんあって、国立劇場の大劇場で、長唄協会主催の合同演奏会を毎年行っています。最後に大勢170名くらいで一斉に演奏することもあり、かなり見事なものだと思いますよ」

 ご自宅で開いている教室は、月に4回。通ってくる生徒は15人くらいとのことだが、それとは別に、宮地楽器という大手の楽器店が主催する音楽教室でも、三味線の講師を務めている。

 「そこの国分寺センターで『長唄三味線』のコースをやらせてもらっています。6、7人の生徒さんがいますね。月に2回、1時間のお稽古です。趣味として三味線を始めようと思っても、費用もかかるし、贅沢なこととして尻込みしてしまうかもしれません。だからこそ、宮地楽器さんの教室などがうまく入り口になってくれるのかな、と思っています。もちろん本当に入り口しか習うことはできないので、もうちょっとやりたいなと思ってウチに来てくれるようになった生徒さんもいます」

「長唄」って、何?

 ところで、そもそも「長唄」とはどういうものなのか。三省堂大辞林では以下のように説明されている。

――近世邦楽の一種目。江戸で歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展した三味線音楽。初期の歌舞伎の踊り歌と、元禄(1688~1704)頃に江戸にもたらされた上方長歌とを基に、享保(1716~1736)頃に確立し、以後、各種の音曲の曲節を摂取しつつ大成した。舞踊曲が本来だが、舞踊を伴わず長唄演奏のみの曲(お座敷長唄)も少なくない。② と区別して江戸長唄ともいう。
② 地歌の曲種の一。個別の短編歌詞を組み合わせた三味線組歌に対して一貫した内容の歌詞をもつ新曲種として一七世紀末期に確立。上方長歌。――

 若干補足すると、江戸長唄は「享保頃に確立」した後、歌舞伎音楽(主に舞踊の伴奏)として発達する。当初は、その演奏者の出生地にちなんで江戸長唄、大坂長唄などと記されていた。しかし、劇場出演者が江戸出身者によって占められるようになる一方で、上方の芝居唄は歌舞伎音楽としては伝承されず、端歌などに吸収されていった。こうした経緯から、一般に長唄といえば江戸長唄を指すようになったとされる。18世紀後半から19世紀前半にかけて、長唄独自の性格が確立されるとともに(江戸)長唄は全盛期を迎える。

 「歌舞伎の演目には『娘道成寺』などの舞踊ものがあります。また、『勧進帳』のような物語り曲の要素が強い演目もあります。そういう演目では『地方(じかた)』という、三味線や唄方が踊りのための伴奏をします。それが長唄なんです。もともとは三味線とお芝居と踊りがセットだったんですね。それが、明治時代になって西洋文明が広がると、上流階級の人たちにも楽しめる音楽としての長唄が必要とされるようになった。そこで生まれたのが『長唄研精会』です。これは、歌舞伎と踊りから離れて、演奏家の演奏だけに長唄を特化して聴かせようという運動でした」

 長唄研精会(以下、研精会)とは、1902(明治35)年、四世吉住小三郎(後の慈恭)と三世杵屋六四郎(後の二世稀音家浄観)の二人によって創設されたもの。一宣さんの話にもあるが、長唄を芝居から独立した鑑賞用音楽として成立させるという新たな試みであった。彼らによって演奏を主眼にした楽曲が数多く創作され、長唄界に新風を吹き込む。以後、各流派による演奏会も数多く開かれるようになり、長唄は広く一般家庭にも普及、浸透する。
 1925(大正14)年には長唄協会が設立されるが、12名の設立委員の中に長唄普及の功績者である二人の名前があるのも当然だろう。
 さらにこの二人は、旧東京音楽学校(現・東京藝術大学)に邦楽科を創設するために尽力したことでも知られる。1929(昭和4)年には同校に長唄専科が新設され、二人とも講師となる。その後1936(昭和11)年には本科となり、ともに教授を務めている。
 現在は東京藝術大学音楽学部邦楽科として、三味線音楽(長唄、常磐津、清元)、邦楽囃子、日本舞踊、箏曲、尺八、能楽、能楽囃子、雅楽の各専攻がある。芸術大学では全国唯一の邦楽科でもある。

 「邦楽技能者育成会で五線譜の読み方も教えてもらいましたが、三味線にはもともと楽譜はありません。研精会の素晴らしい功績のひとつが、研精会譜というものを発行したことなんです。これは革命的だったと思います。長唄を、一般の人にもわかりやすくするという意味があった。それまでは、譜面といっても各流派の中だけの譜しかなくて、この研精会譜ができたおかげで三味線の門戸も広がりました。ちなみに長唄三味線の曲を五線譜で表すこともできますが、ものすごく複雑になります。五線譜に書き起こしたのですが、あまりにも大変な仕事で、数冊ほどで断念したそうですよ」

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『越後獅子』の旧来の譜(左上)、研精会譜(右上)、五線譜(中央下)

 「研精会譜」(または「小十郎譜」)とは、大正年間に四世吉住小三郎の弟子である吉住小十郎によって考案されたもの。縦書きで、1~7の数字を西洋音階のド~シに当てはめ、一の糸の開放弦をシとして、ハ長調、基本的に四分の二拍子で表記する。オクターブは数字の右(1オクターブ上)と左(1オクターブ下)に付く「・」で表す。「・」は2つまで(2オクターブの上下)。
 なお、三世杵屋六四郎は1926(大正15)年に「稀音家」に姓を改め、それ以降、同門は稀音家を名乗っている。稀音家一宣さんの名前のルーツもここにあるのだが、なぜ、家名を変えたのか。それには研精会などの新しい試みを打ち出すにあたっての反発もあっただろうし、何よりも本家本元の「杵屋」に遠慮したのではないかという見方もあるようだ。
 「稀音家」というしゃれた字面の名前の由来は、三世六四郎の父親が初世稀音家浄観(1908年から)を名乗ったことにあるのだろう。もっとも、杵屋の祖である名跡、杵屋勘五郎の三世が別号として稀音家照海を名乗ったのが「稀音家」の元祖なのだそうだ。
 そして、初世稀音家浄観の実子が三世六四郎(後の二世浄観)、孫が四世、曾孫が五世、玄孫が当代という系譜になる。

三味線という和楽器

 三味線は大きく3種類に分けられることは前述したが、その特徴や構造はどういうものなのか。再び大辞林に聞いてみよう。
――撥弦(はつげん)楽器の一。猫皮・犬皮を張った胴に棹をつけ、三弦を張ったもの。撥(ばち)で奏する。棹の太さによって太棹・中棹・細棹があり、太棹は主に義太夫節、中棹は河東節・常磐津節・清元節・新内節、細棹は長唄・小唄に用いられ、また太棹と中棹の中間のものが地歌に用いられる(地歌三味線)。主要な調弦法は、本調子・二上り・三下りの3種である。起源については諸説あるが、永禄年間(1558~1570)琉球の三線(さんしん)(蛇皮線)が大坂の堺に伝来し、琵琶法師によって改造されたという。――

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左からカンガルー皮、犬皮、猫皮の長唄(細竿)三味線。右は象牙製の撥

 これも若干補足すると、その後さらに多くの改良が加えられて、伝来から約30年を経て安土桃山時代にほぼ現在の形に至ったとされている。その操作性の面白さや幅広く応用が利くことから、江戸時代に至って広く一般庶民の間に普及した。
 ただ、普及の背景には、江戸時代に行われた音楽・楽器に関する規制があったようだ。雅楽は貴族、能楽は武家、箏曲は盲人、尺八は虚無僧という縛りがあり、広く一般庶民が手にできたのが唯一、三味線だったというのである。しかしそのおかげで、260年以上にも及ぶ江戸時代を通じて、人々は三味線の技巧を極めることに傾注できたともいえよう。
 そして、三味線は単なる「撥弦楽器」とはいえない、ならではの音の特徴があるというのは一宣さん。

 「糸だけを弾くのではなく、撥で皮を叩いてリズムを刻むというのが、三味線ならではの特徴です。だから人数が多くなると、そのリズムが際立ってくるので、弾いていてとても面白いし楽しい。私は、三味線は弦楽器ですが、打楽器の要素も持っているという言い方をしています」

 詳しくは後述するが、木枠に動物の皮が張られている三味線の構造は、いわば和太鼓のそれと同じだ。さらに言えば、和太鼓を打つのもバチならば、三味線を弾くのも撥なのである。
 もちろん三味線の場合は、胴の部分では糸を叩き、棹の部分では(左手指で)糸を弾くという、2種類の異なる演奏技法が組み合わさった独特のものだ。そして、その奏法ゆえに、胴皮には撥皮というものが貼ってある。撥を打ち付けた痕は、3本の弦それぞれに対応する3カ所のみに付くのが理想で、上級者になると、針の孔ほどの痕が綺麗に3つ一直線に並ぶという。ただし、津軽三味線などは縦横に撥を振るうので、全面(といっても弦を挟んで下半分)に撥皮を貼る。

 「撥皮が傷むと自分で貼り換えます。そのときに撥の痕を見て反省することもあります。音域も3オクターブくらいで、けっこう広いです。調絃が本調子、二上がり、三下がりとあって、二上がりが一番共鳴します。三本の糸が共鳴して華やかな音色になる。三下がりは、落ち着いた、しっとりとした音色になります。演奏の難しさは、やはりギターのフレットのような目印がないこと。勘所(かんどころ)という自分の感覚に頼るしかなく、それが難しい。棹の長さや胴の大きさは決まっていますが、関西のほうが少しふくよかな胴になっていますね。江戸のものはスッとしています」

 三味線は全長97センチメートルでほぼ統一されているそうで、大きくは棹と胴、皮、糸で構成される。一つひとつ手づくりであり、素材も高価なものが多いため、一般的にかなり値が張る。稽古用でも8万円~、専門家が舞台で使用するクラスになると200万~300万円にもなる。しかも舞台用ともなると、例えば歌舞伎などでひんぱんに使うと、10年ほどで耐用年数を迎えてしまうそうだ。

 「三味線は消耗品。200万円くらいする三味線でも、いざ手放すとなると単なる中古品で、二束三文です。バイオリンなんかとは全然違いますね」

 棹の素材は、高級品では紅木(こうき)。他に黒檀や紫檀もある。稽古用には花梨の棹もあり、以前は樫や桑も多く使われていた。最近ではスネークウッドが使われたり、特殊なものとして小唄では白檀や鉄刀木(たがやさん)が使われたりもするそうだ。
 いずれにしても、堅く緻密で比重の高い木がよいとされるが、それぞれ重みや手触りは全く違う。なお、紅木や黒檀などほとんどの材は、インドやスリランカからの輸入品に頼っている。
胴はすべて花梨。また、高級品では、胴の内側の面に「綾杉」という細かな模様を一面に彫り込む。琴の胴にも施されるが、響きをよくする効果があるとされている。

 「三味線屋さんによると、胴が鳴るだけではなく、棹も鳴るんだそうです。棹の材質の堅さと胴の材質とのバランスが大事なので、三味線屋さんは、私たちにまず棹を決めさせますね。その上で、それに合う胴を付けてくれるわけです」

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三味線の胴と天神(糸巻や糸倉からなる最上部の総称)

 そして、三味線と言えば猫の皮を思い浮かべる人が多いだろうが、実際には犬やカンガルーなどの天然皮に加えて、合成皮も使われている。
 ただし、猫皮がやはり高価。1匹から一挺分しか取れないこともあり、舞台用などの細棹、中棹の高級品に使われることが多い。毛穴が小さくて薄く、抜けのよい軽やかな音が特徴だ。若いオス猫の皮が良いとされている。
 稽古用や太棹には、猫皮よりも丈夫な犬皮が使われる。1匹から数挺分が取れるが、猫に比べると硬い音色になるという。なお、津軽三味線に必ず犬皮を使うのは、胴部分を撥で激しく打つ奏法のため、耐久性が必須となるからだ。
 とはいえ、猫皮も犬皮も、動物愛護の観点から入手は困難になっており、現在ではどちらもほぼ100%が輸入。しかも今後は価格高騰の恐れ大だ。いずれは供給が完全にストップしてしまう可能性もある。我々が守るべき伝統芸能である三味線にとって、深刻な問題である。
 そこで登場したのが、カンガルーの皮を使う試みだ。オーストラリアではカンガルーが人口の2倍以上生息しているとされ(人口約2500万人、カンガルー5000万頭以上)、害獣駆除として年間3万~7万頭が処理されている。それを有難く利用させてもらおうということ。肝心の音色だが、実はカンガルー皮は三味線との相性がよく、犬の皮に比べ滑らかで、音も響きやすいという。三味線には打ってつけの材料といえるのだ。

 「カンガルーの皮は1頭からたくさん取れるので効率的だし、長持ちするし、猫皮と比べて音質的にもあまり遜色ないと私は思います。猫になぞらえて乳の跡を描いているカンガルー皮のものもあって、見た目もあまり違わない。実は終戦後間もなく、いずれ猫皮は供給されなくなるからと、芸大の先生たちがウサギとかいろいろな皮で試したそうです。そのときにすでにカンガルーの皮がいいという意見が出ていたとか。それから70年くらいたってようやく一般化して、普及してきました」

 最後に合成皮。破けやすくて管理の難しい従来の三味線の皮に対して、丈夫かつ動物愛護の問題をクリアするという名目で1980年代に登場した。ところが実情は、熱に対して天然皮よりもむしろ弱く、音色も「それなり」だとか。動物愛護に敏感な外国人のお土産用には最適かもしれないというレベルだろうか。

 糸の基本的な素材は絹だが、化学繊維(ナイロン、テトロン)製もある。また、三の糸(一番細い糸)のみ化繊糸という選択もあるそうだ。
 津軽三味線などでは、一の糸は絹糸のみ、二の糸は絹糸と化繊糸、三の糸は化繊糸が主流。三線(蛇皮線)では、3絃ともテトロン製の化繊糸を使用することが多いという。
 ただ、音色や余韻の深みは、やはり絹糸ならでは。邦楽器糸のメーカーによると、一の糸ではおよそ3400本もの繭糸を束ねて撚りをかけているとかで、その厚みが複雑な空気の振動を生み出しているのかもしれない。
 ところで、邦楽器糸には黄色と白色がある。琴糸は現在では白色が主流だが、三味線糸は黄色。本来、繭には白繭糸と黄繭糸があり、江戸時代頃までは黄繭糸も多かった(現在、大部分の生糸は白繭糸で、黄繭糸は東南アジア地域でわずかに生産されているのみ)。また、絹糸は空気中の酸素や紫外線によって黄変しやすく、必然的に和楽器絃として使われる糸は黄色っぽくなっていたであろうことは、想像に難くない。
 明治以降、繭糸が白色になっていったが、伝統として黄色の糸を残すために、初期はくちなしの実で染め、その後はウコンを使って染色したのではないかと考えられている。

 そのほか、糸巻(ギターで言うペグ)は、黒檀、象牙などが素材となる。アクリル製もあるそうだ。
 撥も象牙。地唄などでは薄くてしなやかな鼈甲(べっこう)の撥を使う。稽古用としては樫製のものもあり、先端部分に柘植の木を合体させてあるものもある。
 時代劇では三味線の撥を武器にする場面があるが(『必殺シリーズ』の山田五十鈴が記憶に残る)、琵琶の撥は実際に武器としても使われたという。
 また、撥は鉛を仕込んで重さを調節できるようになっている。単位は匁(もんめ、1匁=3.75グラム)で、一宣さんで18から20匁。子供だと15匁、男性だと25匁くらいが標準となる。

 三味線という楽器の特徴として、保管の難しさがある。基本的に、動物の皮を木製の胴に糊(餅粉を水で練ったもの)で張りつけるのだから、高温と多湿に弱い。しかも美しい音色を生み出すために、皮が限界まで引っ張られているのだ。
 「ウチにも15、16挺の三味線があります。その多くは稽古をやめられた方から『使ってください』と譲っていただいたものです。ただ、保管は本当に大変です。三味線箪笥という桐の箪笥に保管しますが、これも稽古をやめた方が譲ってくださったりします。三味線はデリケートで、湿気や熱はもちろん、気圧の変化にもとても弱い。台風が来ると皮が破けることもあります。犬皮は猫皮よりは丈夫ですけれど、それでも破けます。三味線屋さんは台風が来ると仕事が集中して大変なんだそうですよ。かつてはプラスチック製の三味線もつくられたことがあるのですが、皮が硬くて手が痛くなり、ナイロンの糸だと指も痛くなるし、あまり普及しなかったようです」

三味線、今昔物語

 西荻窪で生まれ育った一宣さんにとって、我が町で三味線や邦楽が盛んだったという印象は特にはない。ただ、三味線の稽古をしている人はある程度いたように記憶しているそうだ。

 「かつては、どこの町内にもけっこう三味線のお稽古をしている人がいて、西荻でも25、26年くらい前までは、街を歩くと三味線の音があちこちで聞こえていたものです。でも、最近は全然聞こえないですね。街の旦那衆のお家に出向いて稽古をつけるといったことも収入のひとつになっていた。昭和の時代まではお稽古する人も多くて、おさらいや踊りのおさらいもたくさんありましたが、平成になって以降は下火になる一方ですね。家元であっても稽古に来る人が少ないそうですから、男性のお師匠さんたちは特に大変だと聞きます」

 名取になりたての頃、和三助師が花柳界に稽古所を持っていたので、一宣さんも三味線の稽古に来る芸者衆に触れる機会も多かった。
なかでも神田明神界隈の芸者は「講武所芸者」とも呼ばれ、格式も高かった。洋髪は許されておらず、必ず日本髪を結っていないといけない。お正月は黒紋付に稲穂の簪というお決まりの正装で歩いていたという。

 「講武所に稽古所があったのは師匠の最晩年の頃ですが、そういうお姐さん方に出会えたりして、とても楽しかったです。芸者衆とお座敷遊びをする旦那衆は、長唄などを嗜みますから三味線は必修で、芸者衆はみんなお稽古に来ていました。けれども、今はそんな高尚な趣味を持つ旦那衆はいなくなっちゃいましたから、花柳界そのものも変わってしまったということでしょうね」

旦那衆の嗜みということでいえば、小三八師が名古屋の名鉄グループの社長たちに稽古をつけていたことがあり、一宣さんも同行したことがあるそうだ。

 「皆さん、『芸どころ名古屋』ということもあってお付き合いで習っているので、上手くなってやろうという意識より、ただ長唄を習っていること自体が大事。年に一度ある発表会のお手伝いにも行きましたが、長唄を嗜んでいることが自分の成功の証、みたいな感じでしょうか。それこそ、人間国宝にもなられた小三八先生に習っているという事実こそが大事なんです。だから、おさらいの会もものすごく派手で、三味線を弾く私たちは不要なのでは? というくらい、ただ歌詞を楽しんでいるだけ、みたいな方もいて(笑)。でも、いい時代でした」

 そもそも、三味線や長唄を聞く機会が少ないということが、下火になった原因でもあるだろう。誰でも耳にすることができるのは、NHK-FMでわずかに放送している番組くらいか(NHK-FM「邦楽のひととき」毎週火曜日が長唄。ただし月末は小唄・端唄)。

 「その放送時間が午前11時20分から50分。再放送が、翌日の朝の5時20分から……。私も出演することがありますが、録音じゃないと聞けませんよね(笑)。本当に寂しい限りです。もう少し邦楽や日本舞踊が盛んになってくれるといいんですが……。津軽三味線も一時期盛んでしたが、今はかなり下火になっています。三味線人口全体が減っちゃっている感じでしょうか。ですから、寂しいことに三味線屋さんも廃業する所が多くなり、私たちも心細い限りです」

 もちろん、教室に通ってくる生徒の中にも、三味線の将来を担うべき若い人はいる。
その一人は、最近イギリスのロンドンに移住して、そこを拠点にして三味線広めたいと言っているそうだ。

 「彼女は中学校に上がる頃に初めてウチにお稽古に来ました。というのは、東京藝術大学の邦楽科に行きたいけれども、少しでも早く始めたほうがいいということで、ちょうど藝高に長唄三味線の専攻科ができるという時期だった。その受験のためにお稽古に来たんです」

 藝高とは東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校のこと。そこに長唄三味線の専攻科ができたのは2001年で、尺八・邦楽囃子とともに新設された。彼女は長唄三味線専攻の一期生になったわけだ。その後、東京藝大の邦楽科に進んだという(ただし藝高から藝大への内部入試はなく、一般入試を経なければならない)。

 「最初の頃は、藝高の三味線専攻の応募者もたくさんいたそうですが、今は減ってしまったようです。三味線をやる若い人が少なくなっているのでしょうね。その一方で、歌舞伎座などで三味線を弾く若手がいないのかというと、そうでもない。今は、例えば芸大を出てもお稽古してくれるところも、する人も少ないですし、踊りをやる人も少なくなっていますから、地方(じかた)さんの仕事も少ない。だから、歌舞伎座の地方さんに入ったりするのが一番人気で、むしろ今は若い子がたくさんいます」

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稀音家一宣さんの稽古場、おさらい会『ともゑ会』風景
稀音家一宣さん提供

 三味線には厳しい時代なのかもしれないが、一宣さんは「三味線を聞いてもらう機会を増やすことさえできれば……」とも考えている。
 学校(主に小学校)で三味線の演奏をする活動も長唄協会で行っているが、演奏後、児童たちが『すごくよかった』とか『懐かしい感じがした』といった感想をくれるそうだ。
 長唄協会では、伝統芸能の保存に向けて文化庁の呼びかけで『キッズ伝統芸能体験』という事業を行っている。これは都内在住の小・中・高生を対象に毎年8月から3月までの約半年間、長唄三味線の講習会を開き、3月末に国立劇場で発表会を開催する。その中から三味線に興味を持ち、お稽古をしたいという子供たちを育てようという試みである。
 「実際に聞く機会さえあれば、三味線を弾いてみようかなという気持ちになってくれるのかなと思いますね。ウチの生徒さんについてきたお子さんやお孫さんなんかも、『三味線の音って、いいね』と言うんです。それで、弾きたいと思ってくれて、音が出るととても喜んでくれます。だから私たちは、まずは聞いてもらう機会をもっと増やさないといけないんだと思っています」

文:上向浩 写真:澤田末吉

参考文献
『まるごと三味線の本』(田中悠美子/野川美穂子/配川美加編著 青弓社)
『三味線とその音楽』(東洋音楽会編 音楽之友社)
『三味線音楽史』(田辺尚雄著 創思社)

*稀音家一宣長唄三味線教室に関するお問い合わせ
E-mail info@officeokumura.com
広報担当:奧村

バイオリン製作者&修理 桂敏明

Prologueプロローグ

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ベルク・バイオリン工房

 或る日、西荻窪駅に向かう裏道に可愛い家が出来た。窓辺にはバイオリンが掛けられ、木製のプランターにバイオリン製作者の名前と年代が焼き付けられていた。
 楽器に触れたことの無い者が、覗きたいけれど覗けない世界に、好奇心と畏敬の念とを抱きながら通り過ぎた。私の記憶の中の西荻は洗練されないローカルさがあって、そんな処が「愛すべき西荻」なのだと思っていた。街は少しずつ変わっていく。
バイオリンに関わる人は多いが、製作で飯を食える人は殆どいない
「僕、お客さんとも作業しながらラフな感じでやりますので」
 門外漢が記者の大役を任され、緊張で頭の中がひっくりかえったようになっていたが、その言葉で「何もわからないけれど、兎に角食らいつかなければ」と腹を括った。
「Since 1990」とベルク・バイオリン工房のホームページには書かれている。そんなに前だったかな?・・すると、現在の工房は14年前に出来、以前は一本西側の道の喫茶店の隣の建物の一室にあったそうだ。「看板がひとつ出ているだけのような感じで。皆、気づかないで」と奥様の以そ美さんがおっしゃる。
 西荻窪に工房を構えたきっかけは全くの偶然だった。場所を探していて西荻窪駅で降り、飛び込んだ不動産屋に紹介された部屋だったそうだ。
「騙されたんですよー(笑)」
 その道は近隣住民ですら、あまり通らないのではないだろうか。それでも現在の工房を構えることが出来たのは、桂さんが知る人ぞ知る腕の持ち主ということだ。
偶然が運命を導く時
 実は最初からバイオリン製作者になろうとは思ってもいなかったそうだ。或る朝、新聞の求人欄が目に飛び込んできたのである。
「僕は薬剤師になろうと思ってたんです。実は一度、学校に入ったけれど、そこは嫌で辞めて浪人した。でもなかなか通らなくて。いつまでもそうしている訳にもいかないから、大学受験をしながら、筑波の動物園に行って飼育係として働いてなんとかしようと思っていた」
 そして筑波へ向かおうという朝。
「朝、新聞配達が来て、見たら『バイオリン(製作者)募集』って書いてあった。それで電話したの。その時言ったのが、才能ないと思ったらすぐに首にしてくれって言ったんですよ」
 桂さんの喋り方に、その時の光景が浮かぶ。新たな出発を控えていたのに何故一秒もかからずに決断してしまったのか。
「それバイオリンやってたからですよね」
 就職したのは文京区にある文京楽器だった。
 桂少年とバイオリンとの出会いは小学校3年の時だった。学校の音楽の時間にテレビ放送を見た。バイオリニストが『赤とんぼ』を弾き、それまで恐く感じていた低音が、
「物凄く、凄く耳にすーっと入ってきて気持ちよかったんです」
 話すことの下手だった少年は、教師だったご両親に作文を書かされていた。

「そしたらバイオリンを習うような感じに持ってかれて、バイオリンを習っちゃった!」

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-8-1024x365.png です
山本繁一氏と修理を待つバイオリン

 結局、一年半位レッスンを受けたが、同じ先生に読売日本交響楽団のバイオリン奏者、同級生の山本繁一氏が習っていたのである。文京楽器に就職した事は、山本さんには黙っていた。ところが文京楽器が『ストラディヴァリウス展』を開催した三越の会場で、二人は再会することになる。演奏者と製作者。偶然に導かれて、二人は改めて良い友となった。
何だ、簡単だなーって思ってたんです
 文京楽器は1947年4月、コントラバス専門店としてチャキ弦楽器を創業。1965年総合弦楽器専門店としてバイオリン・ヴィオラ・チェロの直輸入を開始した。1975年ストラディバリウスを初めて販売する(文京楽器ホームページより)

 桂さんが入社したのは、文京楽器の社長ご子息がドイツ(ミッテンバルト)のバイオリン製作学校から帰国、バイオリン製作販売を創めた頃だという。社長も含めて職人しかいない会社で、おべっかを一切使わず、プロの演奏家に対しても「こんな使い方してはいけない!」などと怒鳴ったりしていたそうである。それだけ技術に厳しい修理を土台にしたバイオリン店だったのだ。

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桂敏明さん

「一番良かったのが、ギターとかコントラバスとかの修理を土台にしてた店だったんで、歴史の流れとしては凄くいい」
 バイオリンは16世紀初頭頃から、少しずつ作られ始めたと考えられている。それ以前はギターやリュートがあり、それらの技術を持っていた人がバイオリンを作るようになったのではないかと言う。
「だから向こうのバイオリン製作者のことをリューテリアって言うんですよ」
 バイオリンのことを全く知らないから、構造から一生懸命に説明してくださる。
「部材は裏板、表板、横板、ネック、指板。たったこれだけで。だから初めバイオリン工房に入った時、何だ簡単だな、って思ってたんです」。「あーな~んだ、これくらいじゃんって」
 ところが十数名で修業を始めたのに、途中で脱落していき、工房で一人位しかできるようにならなかったという。はじめは製作が進み、変化がわかる。しかし次第にミリ単位以下を削っていく作業になるから、強い精神力が必要となるのだそうだ。
「頭にずーっと重しを乗っけられて上から乗られている感じ」
 余りのストレスに自転車に乗って大声で歌いながら家路に着いたりした。昼間の仕事が終わってからの妥協のない修業に皆、次々と脱落していったのだ。
形が音なんです
「最初に本物を見ることが一番大事ですね?」聞いてみる。
 文京楽器には当時、日本一、最高の楽器が来ていると言われていたそうだが、桂さんは「ほんとかよ?」と思っていたそうだ。実際に本物のアマティなど、クレモナへ見に行くよりも沢山の楽器が、日本に来ていたそうである。

 次第に話が熱中してきて桂さんが「隆起、撮りますか?」とおっしゃる。「隆起」とは修理の際等に、バイオリンの表面を石膏型に取ったもので、製作の際に「流れ」を見ながら作るそうである。

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「これなんかさあ、ストラド、の本物の隆起」「1730年のマリーン」。
「隆起をずーっと穴が開くほど見るっていう。見ることが一番大事。この隆起っていうのは大体流れ、これ自体が音なんですよね。だから本物を見ろって言われたのはそういう事で、そうすると偽物があったときにわかるっていうんです。本物って綺麗な感じだから。プロは見て買うの。なんでかっていうと弾いた音がその音じゃないですから」

 楽器は作って直ぐに鳴るわけではないのだそうだ。出来た時点で鳴るともうそれは駄目で、鳴らなくなるとはっきり判る。

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「職人は500年鳴るように作りたい。だから直ぐ鳴るようには作っちゃ駄目だし、ず~っと弾いてて鳴るようには作んなきゃいけないですよね」
 音は成長するのだそうだ。どんどんどんどん変わってきて5年目位から少しずつ良くなって来るが、直ぐ鳴る楽器はそこが精いっぱいで、だんだん悪くなるのだと言う。そして楽器は弾かなくなるとすぐ駄目になると言われるが、それは二つの意味があるのだと言う。一つは本当に割れたり、変形したりする事。だがもう一つ、楽器が演奏家の音を忘れてしまう「眠る」というのがあるのだそうだ。弾けば弾くほど楽器は起き上がって、音の天井は上がっていく。それに合わせて奏者も変わっていく。又楽器も変わっていく。人間関係と似ているのだと桂さんは言う。
「だって人の気持ちもわからないようだったら、楽器の気持ちもわからないでしょ」
「ストラディヴァリのような偉大な製作者も、クレモナという地域がなく一人で製作していたら、あのようなバイオリンは出来ていない。時代背景とかそういったものが作らせたし、民衆がこういうのが欲しいって言って作らせただろうし。もっと早い時代に生まれていたらたぶん出来ていなくて、与えられた環境の中で頑張った。つまり才能を与えられたのは自分の努力だけではないから、自分だけでは出来ていなかったよ、たぶん」と桂さんは言う。
 桂さんは熊本の出身だ。教師だったご両親は親の言う事を全然聞かない、むしろ反対の事をわざとやる息子に当惑していたようだ。
 以そ美さんは言う。
「たとえば普通の人が何かをやりたいと思っても、何かにぶつかるなあと思ったらそこを諦めたり、避けたりするんだけれど、そういう障害は障害と感じない。この道が一番と決めたら、ダメだったらこっちから、それもだめならこっちからと結局やり通していくところが、主人は普通じゃない」
 桂さんは、
「警戒心はあるし、安全な方を取ってるでしょ?」
 とおっしゃるが、結局、最後には隔世遺伝、その性格は祖父似ではないかと認めざる を得ないところに、奥様と私たちの会話は行きついてしまった。
ベルク・バイオリン工房の志 フレンドリーマインド
 そういう桂さんが工房を構えて知りたかった事は、「職人は敷居が高くなければならないのか?」という事だった。事業を創める目標の一つが、世間的な常識に対しての疑問を解くもしくは解決しようと試みる事だ、いうのはとてもよく判る。独立したら、みずからの力で周囲の賛意を得、事業を継続していかなければならない。だからこそ試し、チャレンジしていく事がひとつのパワーになるのだ。
 実際に桂さんが海外の一流と言われる製作者に会って話を聞くと、みな結構フレンドリーだったそうだ。

「で、それを実行してます」

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左:以そ美さん 右:敏明さん

「ベルク」はドイツ語で「山」の意味。好きだった山登りとバイオリンも山の木から生まれることから名付けたそうだ。工房の壁の色は、イタリアでさまざまな家の色を写真に収めて来たそうだ。さすがこだわり方が半端じゃない。話は取材の枠を超えてどんどん熱を帯びてしまった。
 ぶらり取材体験をきっかけに、これまで縁のない世界を訪ねる事の出来た私達は幸せ、そう感じながら工房を後にした。ここに書けなかった山ほどの貴重なお話、

それはいずれ又!

ベルク・バイオリン工房
Maker & Restorer 桂 敏明
住所:東京都杉並区松庵3−39−3
電話:03-3334-7179
営業時間:10:00-20:00
定休日:日,月曜日

JR西荻窪南口より徒歩4分

文:窪田幸子 写真:奥村森

取材日 2016年6月28日

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