『松庵の本木』がブランド

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 竹は私たちの日常生活にとって大変身近な存在だった。縄文時代の遺跡から竹製品が出土しているそうで、それほどの昔から私たち日本人は竹とともに暮らしてきた。様々なザル、カゴにはじまり竹竿、扇子、団扇、物差し、竹トンボ、竹馬などなど、身の回りにあった竹製品を次々に思い出すことができる。ところがいつの頃からか、身近にあった竹製品の姿が見えなくなってきた。竹トンボや竹馬のように子供の遊びの対象にすらならなくなったものや、台所にあったザル、衣装カゴのように日常の生活の中で使われなくなったものも多く、竹製品は、プラスティック製品の登場で消えていった。

 本木文平さんは、竹職人の父利喜蔵さんと二代にわたって、杉並区松庵で竹にかかわる仕事をしてきた。今回は 本木さんに、竹をめぐるいろいろな話をお聞きしようと思う。
竹は孟宗竹と真竹
本木さんはいくつのときから竹にかかわる仕事を始められたのですか
「学校出てすぐ、父親の手伝いということからはじめたから、18歳のときになるかな。昭和8年生まれだから、昭和26年ごろということになるね。主に、私は植木屋さんを相手に竹材を仕入れて売っていて、父が竹カゴの職人だった。その頃はね、松庵小学校はまだなくてその辺は、岸野さん、栗原さん、窪田さんの土地で、孟宗竹の藪だった。そのもう少し先に行ったところの栗原さんの土地には真竹が生えていた。その竹を譲ってもらってカゴを作っていた。細工に使うのはこの二種類。孟宗竹は太くて荒く割けるので、農家で使うかごに向いているの。豚カゴといって豚を入れられる大きなかごができた。高さが1m2,30、長さが2m、幅がこのくらいかな」、と広げた手の幅は1mぐらいだった。そのとき思い出したのが、江戸時代の罪人を入れて運ぶ唐丸カゴだけど、そんなものはもちろん作っていない。豚カゴより大きいのは、小学校の運動会で玉転がしに使う丸いカゴだそうだ。「真竹は細いけど粘りがあって細かい仕事に向いていた。小さいものは真竹でないとね、作れない。色の良さ、つやがあって、美しさは真竹だね。それに、垣根はいろいろあるけれど、あれは全部真竹。うちはザルも作ったけれど、カゴが専門、それでご飯を食べていた。」
竹は切り時が大事
 国内で生育する竹は600種ほどになるそうだが、本木さんは「あと竹では関西の黒竹と千葉の女竹。女竹は加工すると清水竹と名前が変わっちゃうの。女竹は密生しているんだけれども、今あんまり使い道ないでしょう」、と二つ、挙げてくれた。
 竹は成長が早く、一日で、孟宗竹で119cm、真竹で121cm伸びたという記録がある(林野庁ホームページ、「竹のはなし」)。竹は伐採する時期が大事だと言う本木さんの話を聞いてみる。「切るのは一年で一遍だけ、虫が入るからね。切り時を切(セツ)というけれども、切がいいとか悪いとか言ってね、水が上がった後がいいの。竹が眠ると言ってね、冬眠に入った頃、そうねー、11月ぐらいだね。この時期がすごく大事で、時期さえ間違えなければ虫が入らない。春、藪に入って竹に生まれた年を書いておいて、切り時が来れば自分で切っちゃう。竹は一年で伸びちゃって、後は固まるだけだから、一番いいときは三年目だね。一年目のは新子というんだけれど、柔らかくて折れやすいから、カゴの縁をまくのに使うぐらい。四年、五年も経つと、つやが無くなってきて使えない。竹は面白いもんで、日当たりのよいところに生えているのは、こわくなってよくない。硬くなって割れてきちゃう」。
竹の虫を食べる
 いま昆虫食の話題を、雑誌などで見かけるが、本木さんはこの竹の虫を食べたことがあるそうだ。「竹に入る虫というのは、鉄砲虫と言ってたけど、食べるとうまいんだよね。虫に詳しくないけど、大きくなったらカミキリムシになるんじゃないかな」。ネットで「竹 害虫」と入れて、調べてみると、竹の害虫としてタケトラカミキリとベニカミキリが出てきた。白いイモムシのような幼虫からさなぎを経て、この成虫になると説明されていた。写真を見る限り、食べるのは幼虫の方だろう。味は確認していないが、ミャンマー料理では竹虫が調理されるようで、レストランのメニューの写真によく似ている。関心のある方はレストランで味わってみてはいかが。パンダは竹を食べますねと聞くと、「葉っぱだけじゃなくて固いところも食べるんだよね。何の栄養があるのかね。人間は竹の子を食べるけど、うまいのは孟宗竹ので、真竹のは苦いんだよね。だから食べない」。真竹は苦竹とも書かれ、ニガタケともよばれる。話を本題に戻そう。
そうやって切った後、カゴになるまでの手順はどうなるのですか。竹は木材のように寝かしておくのですか。
「竹はたくさんは要らなくて必要な分だけ切ってくればいい。採り過ぎても無駄になるだけだ。この近所の竹藪で間に合っちゃう。一人の職人が使う量は知れてるからね。日陰に置いておくけども、あんまり時間がたっちゃっても使い物にならない。そこが木材と違うところだね。一年も二年も置いとくなんてことはしない。そこでカゴを作るとなると、一本の竹を割って、さらに四枚に裂く。これを竹ヒゴというけど、一本の竹から竹ヒゴが何十枚ととれるからね。何本も要らない。竹ヒゴは、一枚目から四枚目までそれぞれ特徴があって、一枚目の皮が一番良くて、だんだん固くなってくる。そして表、裏をちゃんと保っておかないといけない。表裏を逆にするとだめなの。それを編み込んでいってカゴにするわけだ。ここが職人の腕の見せ所だね。」
できたカゴを買うのは地元松庵の農家ですか?
「そうね、松庵の農家が売り先で一般の家庭は、昔は使ったでしょうけど、そんなに使わないから。今カゴ製品はビニールになってしまったから、カゴ屋はもういないでしょ。農家もほとんどなくなってしまったから、カゴを買う人もいなくなった。カゴはね、雨ざらしにしたりしないで大事に使うと、何十年も持つの。そうすると売れる数も減って商売としてはうまくないけど、粗末に扱われるのを見るのはやだね」、と職人としての父の気持ちを代弁するかのようだった。
竹職人の利喜蔵さん
少しお父さんのことをお聞きしたいのですが…。
「父は、大正の終わりころ小金井(栃木県)から松庵に来て、岸野さんに家を借りて職人としてスタートした。明治37(1904)年の生まれだから、21か2のときになるね。日が出る前から暗くなるまで、そして暗くなっても働いていた。一日三~四時間しか寝てなかったんじゃないかな。そうしないと食べていけなかった。その頃、職人の手間賃が日に一円五〇銭ぐらいだったんじゃないかな」。当時(大正15年)の喫茶店のコーヒーが一杯一〇銭、ビールが一本四二銭だった(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。「職人の稼ぎは少なかった。今にして思えばよく食べて行けたね。オヤジは大変だったろうと思うよ。だから子供を職人にしようとはしなかった。学問を身に付けろという考えで、学校に行かせてもらった。それで、私は竹を四枚にわることもできない。簡単そうに見えるだろうけど、素人には手を出せない。私はもっぱら竹材の仕入れと販売を受け持って、オヤジの手伝いをしたわけね」。
 本木さんは、お父さんの修業時代の話を思い出して、職人になる苦労は並大抵のことではないと次のように話してくれた。「父は小学校を出ると修業に出たわけ。はじめは子守と雑巾がけだ。なかなか竹材や刃物に触らしてくれない。危ないしね。それからだんだんと簡単なことからやらせてくれる。親方が、よし、独立しろというまでが、修行だ。つらい仕事に耐えて一人前で、途中でやめていく人が多かった。奉公に十年はいかないと職人になれない。そんなこんなで一人前になっても、大変でしょ。仕事は、手間のカタマリみたいなもんだから、そんなに儲かるなんてことはないし、土をこねて茶碗作るにしても、名人という評判をとるまではもっと大変だ。大概の職人は、歯食いしばって頑張って、身体、使って来たから、歳とると歯がないの。自分が言うのも変だけど、立派な父親だったね。飲むのが好きだった。55のとき倒れて、働くのをやめた」。
本木さんのお店は何という屋号でした?

「そんなのないの。店の名前はないし、看板もないの。『お前の作るかごはいいな』と言われるのが宣伝であり屋号なの。『松庵の本木』で通っていた。信用が大事で、すぐ壊れるような、いい加減なものを作ったら生活ができなくなっちゃうから、命懸けだ。ここで駄目になったからって、知らないところに行ったって食べていけないんだから、人との付き合いは大事だ。父は人から受けた恩は決して忘れなかった。竹を譲ってもらったりして、松庵の地主さんに大事にされたおかげで、食べてこれたので、地主さんには頭が上がんない」。恩の大切さを強調する本木さんは、「今の時代、恩や感謝という言葉が無くなっちゃった」、と悲しそうな表情だった。

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お父さんの時代、竹屋さんというのはどのくらいあったのですか?

「大体、村ごとにカゴ屋はあったね。久我山、高井戸、松庵、関前とかに一軒づつあった。ある程度離れてないと、商売はうまくいかないよね。数えたことはないけど、農家が百軒以上ないとやっていけないんじゃないかな。さっきも言ったようにカゴは大事に使えばもつから、そんなに売れるものじゃないしね。沢山作って、今度は市場に持って行っても買いたたかれちゃう。安くても仕方ないから売ってしまうんだよね。うちがこの辺りで最後のカゴ屋だった。この商売はね、ビニール製品がはびこってきたときにもう、駄目なんです、負けちゃったんです。それに跡継ぎもいないしね。見込みがないって、そう思っていたから、仲間が止めていくのを見ても寂しくなかった。私は仕入れ販売をしていたから何とかやってこれたけど、とうとう力尽きて竹の仕事を止めよう、と思ったのが平成20年頃だった」。
本木さんはお父さんの手伝いをするかたわら、文房具店を始めたのですか?
「よく知ってますね」、と尋ねられたので、以前、『西荻春秋』に金田一先生に登場していただいた時、本木さんの文房具屋さんによく行った、という話を聞いたものですから、と答えると、嬉しそうに話を続けてくれた。「あ、そうなんですか。松庵小学校ができたときに始めたんですよ。私が高校出てすぐに始めたの。今の文房具屋と違って何でも売りました。よろず屋だね。運動足袋なんかも扱ったけど、運動会のときの一回限りのもんでしょう。ノート、鉛筆はもちろんだけども大きな紙とかね、いろいろあった」。松庵小学校は、開校は昭和27年4月だが、他の小学校に間借りしていて、松庵の現在地に校舎ができて移ったのは同年9月のことになる(同小学校同窓会ホームページ)。
話終わって、少し竹のうんちく
 私たちと長い付き合いの竹は、はじめに述べたようにいろんな形で利用されてきた。食用にされ、道具を作る材料にされ、そして竹材としてだけでなく皮も使われる。子供のころ、おやつ代わりに梅干しを皮で包んで、しゃぶっていた思い出を持つ方も多くいるのではないだろうか。ちまきは笹の葉で包んでいる。肉屋さんは肉を竹の皮で包んで売っていた。「お弁当のおにぎりもそうだった。竹には殺菌作用があるからね、食品関係にもいろいろと使われたね」、と本木さんは懐かしそうに話す。
 空気も殺菌されるのか、竹林に入ると、何か清々しさを感じることがある。気持ちが洗われるような気分である。スッと一風吹いてくると、思わず姿勢を正したくなるような、まさに「地上にするどく竹が生え」た、静謐な感じがする。大げさに言えば神社のような聖なる場所に来たと思わされるのだが、そんな経験はないだろうか。誰もが知っている『竹取物語』では、竹の中からかぐや姫が生まれるが、彼女はこの世の人ではない。月に帰るのだから月の人、つまり天にいる存在、聖人が竹林で生まれる。竹林はそういう場所だった。「竹林の七賢」は世俗に背を向けて、竹林に入って清談にふけった、という故事もある。そんなことをあれこれ想うと、松庵の竹藪が消えてしまったのは、恩や感謝の言葉がなくなってしまったという本木さんと同様、悲しく寂しい気持ちにさせられた。桜並木の保存を言うなら誰か竹藪の保存に乗り出してくれないかな、と思う。地震のときにも役に立つのだから。小学校の南側には梅の木がたくさん集まっていて、季節にはきれいに咲きそろう。近くに竹藪を復活させてくれれば、松庵の竹藪に梅となって縁起もいいのだけど…。
 ところで竹はイネ科の植物だが、木なのか草なのか、どちらだろうか。専門家の間でも意見が分かれるそうである。異質なものをつないだという意味で、「木に竹を継いだような」という表現を使うことからすると、竹は木の仲間でないような気もする。『古今和歌集』に次の歌がある。「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの はしにわが身はなりぬべらなり」(雑歌下)。桓武天皇の女、高津内親王の歌と注が付けられているが、平安時代にすでにこのように思われていたのが面白い。これに対して現代、世界的に有名な竹博士である上田弘一郎京都大学名誉教授は次のように力説されていて、さらに面白いので紹介すると、「竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だ!」そうです。
 後日、養鶏家である窪田幸子さんの指摘によると、唐丸カゴの唐丸とは鶏の一品種だそうで、そもそも、その鶏を入れるかごを唐丸カゴと呼んだそうです。罪人を運ぶカゴは、形がそれに似ているのでその名がついたということでした。

 鶏と言えば伊藤若冲の名が浮かぶ。『若冲の描いた生き物たち』(小林忠ほか、学研プレス)のなかで、「紫陽花双鶏図」の解説に絶滅した大唐丸、現存する唐丸の話題が紹介されている。「…若冲の絵に描かれているもののなかには、大唐丸とおぼしきものが多く、絵画的価値だけでなく、家禽史の資料としても貴重なものといえる」とある。

文:鈴木英明 写真:澤田末吉

取材日:2018年5月28日

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『オンギ』、ホットする味、韓国小皿料理

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 西荻窪駅南口を出て、左手の線路沿いの平和通りを荻窪方向に5分ほど歩いて行くと『韓国小皿料理オンギ』に着く。韓国料理イコール焼肉と思って、そんなイメージの店構えを想像していくと通り過ぎてしまうかもしれない。ガラス張りのなかが見える店はおしゃれな喫茶店といった感じだ。ローマ字でOnggiと書かれたドアを開けて中に入ると、「いらっしゃいませ」と笑顔の素敵なキム ユナさんが迎えてくれる。彼女が一人で切り盛りしている店内は、5,6人が座れるカウンター席と4人掛けのテーブル席が一つのこじんまりした、落ち着ける雰囲気。

―――早速、店名の『オンギ』の意味を聞いた。
「オンギは焼き物で壺とか甕の意味ですけど、日本で瀬戸焼とかなんとか焼きというのと同じで、焼き物のオンギ焼きですね。工芸品もありますし、キムチとかの発酵食品を容れたり醤油漬けに使ったりして、毎日の生活で普通に使っている壺ですね。韓国で料理を作るとき普通に使われている道具ですので、ま、そのイメージが、普通の家庭で食べるような、おかずのような料理を出すお店のイメージにつながるかな、と思ってオンギと付けたんですね」。

 韓国で日常的に食べている料理を提供するお店ということで、さらに、韓国小皿料理と前にも付けて『オンギ』としたわけだ。あらためて扉に書かれた店名や頂戴した名刺を見ると、Oの字の中には壺の絵がデザインされていた。お店にお客できていた韓国出身の人が、この絵を一目見て、韓国料理の店だと分かった、と言うぐらいで、故郷のシンボルのような存在なのだろう。

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―――韓国料理というといろいろあると思いますが、なぜ小皿料理なんですか?
「あの-、韓国では家でも外でも、食べるとき、品数を多めに出すんですね。見た目ちょっと贅沢でないともてなした感じがしないんです。日本に来て一番違うなと感じたのが、品数が少ないな、ということでした。でも、お店で多く出したら一人で食べきれないし、お酒も飲めなくなるでしょう。一人で色々食べられる方がいいと思って…」とほほ笑む。

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―――お店のメニューにはキムさんの出身地の影響があるんですか?
「いま出しているのは韓国の一般的なものですね」。メニューにはサラダ、キムチ&和え物、ナムル、韓国漬物、一品料理、チヂミ、と並ぶが、ごはん物がない。お酒を飲むときの肴になるものがメインだ。
「ごはんをやると定食屋みたいになっちゃうし、私一人ではできないですね。夏に冷麺はやりますけど。でも、常連さんで、よそで買ったものを持ってきて、今日、これでお願いと、裏メニューみたいだけど、頼まれて作ることがありますよ」と笑いながら話す。

 お気に入りの料理を紹介すると、まずチヂミ。海鮮、じゃがいも、にら、エリンギなど7、8種類ある。「何でも衣をつけて焼けばチヂミですね」とキムさんが解説してくれる。焼きたての衣はふんわり、中身のレンコンは軽くサクッとしながらしっとりとジューシーで柔らかい。焼き過ぎの焦げめもなく、さっぱりしたタレをつけて食べると、パクパクっとお腹に収まってしまう。皮付きニンニク丸ごとの漬物もびっくりするが、なかなかにオツだ。チョレギサラダ、ナムルも美味しい。一品一品は小皿に手ごろな量でだされる。どれも味がよく選ぶのに迷ってしまうほどで、これがまた楽しい。

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「お客さんはほとんどが日本人ですね。ここに来る韓国人のお客さんはたいてい私の友達、忙しくなると手伝ってくれたりして」と言って大笑い。店内は落ち着いていて、明るく、かつての“おじさんたちの呑み屋”ではない。一人住まいで家では料理をしない人も、この店の家庭的な匂いとキムさんのもてなしに、自分を取り戻しほっとするのではないだろうか。
 店が混んできても、客の注文を忘れたり、間違えたりすることもなく、料理を用意しながら何人もの客と話が弾む。話題は政治の話やら日韓文化の比較の話、硬軟取り混ぜて何でも来いという風で、知的な会話も楽しめる。カウンターに座って黙って呑んでいても、いつの間にか話に引きずり込まれてしまうに違いない。キムさん、一度来たお客さんの顔は忘れないそうだ。

「まあ、プロですからね。それに顔を覚えると喜んでもらえるし…。でも、名前を覚えるのは大変。日本人の名前は韓国人より長いから」とにっこり。キムさんの話す日本語は、私たちが話すのと変わりがないくらいに上手だ。

―――きれいな日本語ですけど、どこで勉強されたんですか?
「来日する前にひらがなとカタカナぐらいは覚えてきましたけど、日本で日本語学校に2年間通って勉強しました。嬉しいね、ほめられて」と今度は照れ笑い。

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―――キムさんご自身のことを少しお聞きしますが、日本に来られたきっかけは?
「最初ワーキング・ホリデーで2007年に来たんですよ。ちょっと1年ぐらいいて、日本の生活を経験して少し言葉を覚えたら帰ろうと思っていたんですけれども、楽しくなっちゃって留学することにして日本語学校に通ったんです。楽しくなったのは、私の故郷はプサンですけど、そこから離れているからなのか、ちょっと自由な気がして、うまく説明できないけどそういう感じが自分は好きだったんです。東京はグルメ天国じゃないですか。いろんな国の人が集まっていて、それぞれの国の料理が楽しめる。そこからいろいろな異文化が体験できる、というのも楽しかった。私は食べることも好きだし、作ることも好きですね。それで、日本語学校の後、料理の専門学校に行きました。」

「子供のころから料理は好きだった、ってゆうか、よく手伝わされたんですね。うちは大家族だったんです。父が長男なので兄弟が一緒だったりで、食事の準備は大変だった。一番多かったときは8人ぐらいいたんじゃないかと思います。それに普段の食事だけでなく、日本でいう法事?、先祖の命日だとかお盆、それに旧正月とか、とにかく年に何回も特別な料理を用意しなければならなかったんですね」。

―――それで料理の腕を上げたんですね。特別な料理というのは地方色豊かな伝統料理なんですか?
「法事で出す料理は大体決まってるんですね。日本のおせちみたいに何が入らなきゃいけないとか、そういうのが決まっているんです。そこにはニンニクを使ってはいけないとか、唐辛子は使っちゃいけないとかっていうように……」。

―――唐辛子なんか何にでも使われているように思っていましたけど?

「昔のキムチは白かったんですけれども、日本から唐辛子が入ってきて使うようになったんです。ですから昔のキムチは辛くなかったと思いますよ」。

―――キムチの地域による違いはどういうものなんですか?

「地方によっても家庭によっても味は違うので、一言でいうのは難しいんですが、プサンだと海のそばなので、ふつうは魚の塩辛を使うことが多いんですけど、魚を丸ごと入れて漬けるのもありますね。発酵すると骨まで食べられるんです。ソウルでは魚は貴重だからイカの塩辛なんかを使う。昔は冷蔵庫がなかったから保存食には塩を多く使ったけど、今はキムチ用の冷蔵庫まであったりするので、だいぶ塩気はなくなりましたね。醤油漬けとかみそ漬けもありますよ」。

―――どうして西荻にお店を出すことにしたのですか?

「1年ほど物件を探しました。神楽坂や飯田橋辺りで物色したりしたんですが、なかなかいい情報がこない。それで探す範囲を中央線沿線まで広げたら、このお店が見つかったんですね。ここは一目ぼれでした。これはいいなという感触でした。前のお店も食べ物屋さんだったということで、すぐ借りることができました。

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 西荻の街の落ち着いている雰囲気も気に入りました。日本に来て十年になりますけど、大久保とか高田馬場に住んでいたころは日本にいるという感覚を持つことがあまりなかった。でもここにいると、お客さんもいろんな職業の人がいて、そういう人たちとつながりができていくじゃないですか。日本人の中にやっと入れたという感じがして、これが日本での生活かなという実感がわきますね。」

―――開店して一年、これからの希望とか将来への夢を聞かせて下さい。
「女性のお客さんがもっと増えてほしいな、という願いはあります。そうなれば、ここでキムチの漬け方とか、料理教室をやれるんですけれども。ま、ちょっと大げさですけど、韓国文化の発信をしていく、料理も文化の一つですから、料理でできることをやっていきたいと思っています。宮廷料理や焼肉料理、辛い味つけだけが韓国料理じゃなくて、わたしが創ってここで出している小皿料理も韓国料理なんだと、知ってほしいですね。」

 西荻にまたいいお店ができたなと、強く印象に残りました。女性の方、一人でも気楽に入れますし、食べて、飲んで、料理の話など楽しんでください。常連さんが増えることを願っています。食を通じて韓国文化の発信をしたいというキムさん、これからのご活躍が楽しみです。

韓国小皿料理 Onggi(オンギ)
東京都杉並区西荻南3ー19ー13
TEL 03−6883−3268
営業時間 17:00ー23:00

日曜定休

文:鈴木英明、窪田幸子 写真:澤田末吉

取材日 2017年6月28日

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『喜久屋』、上野山圭祐さん、頑張れ

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 フードショップ『喜久屋』は、昭和20年(1945年)の開店当初から南口の『こけし屋』、北口の『喜久屋』と西荻人から親しまれ、戦争で荒廃した社会をハイカラにする牽引役を果たしてきた。最近、その『喜久屋』の向かいにある北口駅ナカに同業大手『紀ノ国屋』が参入してきた。
『紀ノ国屋』は、明治43年(1910年)に青山で果物商としてスタート、昭和28年(1953年)、それまでのザルで代金のやり取りをする「留め銭」と呼ばれた手法から、レジスターで精算する新しい買い物スタイルを導入、日本初のセルフサービス・スーパーマーケットを青山に開店した。その後、パン食を始めとして、これまで日本にはなかった舶来食品の販売に力を注いだ。

 取り扱い品目は、まさに『喜久屋』と競合する。会社規模や資金面からすると敵う相手ではない。これまで大黒柱として店を切り盛りしてきた代表取締役の上野山圭祐さんも高齢になり、『喜久屋』にピンチが訪れた。

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顧客と寄り添う『喜久屋』の存在
 圭祐さんは、横浜市鶴見区の出身、戦時中は縁故疎開で信州に暮らした。帰京後、叔父が経営する阿佐ヶ谷の書店を手伝いながら松の木中学の一期生として学校に通った。ちょうどその店の隣にあった食料品店『喜久屋』を経営していた吉田清蔵さんの目に誠実に働く圭祐さんの姿がとまり、西荻の『喜久屋』への就職が決まった。

『喜久屋』社長の上野山喜吉さんは、戦後復員して故郷和歌山からみかんを当時神田にあった市場に卸していた。その他にも西荻窪でパチンコ店、映画館、証券会社など、手広い事業を展開するする経営者だった。圭祐さんは、そんな喜吉さんの下で働くことになった。

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 ここでも彼の誠心誠意の姿勢は変わらず、喜吉さんに気に入られ上野山家の娘婿として迎えられ、新たな店を任されるようになった。どのような店にするかの構想を練るため、青山の『紀ノ国屋』、銀座の『明治屋』、新宿の『高野』などを参考に見て回り、商品の種類、並べ方、接客の仕方など、商売の基本を勉強した。

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 しかし、何分戦後で物資の乏しい時代なので店に並べる商品がない。配給された小麦粉を集めてパン屋で製パンしてもらい、その工賃を貰って舶来の缶詰を購入、北海道から乾燥した数の子を求めるなどして少しずつではあるが商品が店頭に並ぶようになった。時の経過と共に品揃えも充実し、西荻という土地柄を生かして、いち早くウイスキー販売の許可を取得、舶来ウイスキーの販売を始めた。
「家庭の食卓をどのように演出するかを想像し、それに適したお酒、料理、食材をそろえるようにした」と圭祐さんは語る。そして、顧客との会話に耳を傾け、バター、チーズ、オイル、調味料、缶詰、ワイン、日本酒、ウイスキー、コーヒー、パスタ、菓子や材料など、ニーズに応えるよう努めた。
 関東では珍しい関西や東北の菓子なども店に並べた。今では入手が難しい伝統的な商品や家内工業的に作られた手作り菓子も扱った。日本の古き良き文化を大切にしたいという思いからであった。今でも店内で金花糖の販売は人気の的だ。金花糖(きんかとう)は、煮溶かした砂糖を型に流し込み、冷やして固め、それに食紅で彩色した砂糖菓子である。江戸時代に南蛮菓子を真似て作られたものとされ、結婚式の引き出物や節句祝いなどに用いられる菓子である。
 まずは顧客の声を大切に聞き入れ、品揃えをする。そして、すぐに商品を調達するフットワークの良さこそが『喜久屋』の真骨頂である。東京には地方からやって来た人が大勢住んでいる。そういう人達から「『喜久屋』に行くとこういう物が在る」との口伝えによって店は発展してきた。
 インターネットブログで「クリーミーでまろやかなブルーリボン付ビン入りマヨネーズをもう何十年も愛用していますが、今でも一番おいしいマヨネーズだと思っています。このマヨネーズだけは『喜久屋さん』で購入したい」というこだわを持った熱烈なファンが『喜久屋』にはいる。昭和に生きた人々の思い出に寄り添いながら歩んだ『喜久屋』が浮かび上がる。
商店街の圭祐さん

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 上野山さんは『喜久屋』だけではなく、西荻窪商店街青年部も立ち上げた。
『駅前盆踊り大会』や『大売出し』など、いろいろな企画を立案した。なかでも有名なのが『ハロー西荻』、毎年5月に行われる西荻の名物イベント、街中で音楽ライブやパフォーマンスが行われ、ウォーキングやスタンプラリーの抽選会で豪華な景品が当たることでも知られる。圭祐さんは、この『ハロー西荻』の名づけ親でもある。
 圭祐さんの功績は、それだけに留まらない。彼は消防団員としても活躍、こんな地域への熱意に信頼を寄せる近隣の私立保育園など50か所から、「昼食などの素材を配達して欲しい」との注文が相次ぎ、長い間続けてきた圭祐さんだったが、高齢であるのと人手不足もあって、最近は同業者にその仕事を分配するなどして数を減らしている。
 従業員には上野山さん自身が率先して手本を見せ、無言のうちに後姿で仕事を教える。まるで親子のような関係だ。従業員は「尊敬しています」と話す。
 圭祐さんは「西荻窪は生活環境としては、とても素晴らしい場所。でも、商売には厳しいところもある。そんな立地だからこそ、お客様との対話を楽しんで大事にすることが私個人にとっても街全体にとっても重要なことだと思います」と語る。若い頃、参考にした『紀ノ国屋』が駅前に参入してきた。「時代の流れはどうしようもない」圭祐さんの表情は達観していた。

「お客さんが何を考えているのかを見極め、欲している商品を揃えていく。お客さんとの人間関係を築くことが個人経営で最も大切な要素です。商品の中身についても積極的に会話して商品研究をしなければいけません」と説く。圭祐さんは82歳になった今も現役、住んでみたい町西荻窪を支える原動力として欠かせぬ存在だ。西荻窪の文化を消さないために。頑張れ、『喜久屋』、上野山圭祐さん。

文:澤田末吉 写真:奥村森

参考資料:紀ノ国屋ホームページ

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“ドゥカティ”と“ヴェスパ”のあるテーラー

LID TAILOR 根本修さん

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プロローグ
 西荻春秋の取材メンバーに冨澤信浩という記者がいる。彼は無類のモノオタク、車・バイク・ゴルフ用品・時計・携帯・音楽など、とりわけクラシックな機械モノに目が無い。そんな冨澤記者が是非とも取材したいと願望する店、それが根本修さんが経営するビスポークスーツやシャツをオーダーメードするLID TAILORである。欧米風なおしゃれな洋服屋さんと思って店内を覗くと、なんと、あのイタリア製のオートバイ“ドゥカティ”が、店頭にはスクーター“ヴェスパ”が飾られているではないか。それもかなりの年代物、居ても立ってもいられない冨澤記者は店に飛び込んだ。
モノ好きな二人、映画「ローマの休日」で心が通う

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 LID TAILOR(リッド テーラー)の根本修さんは1972年生まれの44歳。店に飾られる“ドゥカティ750 Super Sport”は1974年に製造された42歳、知る人ぞ知る憧れの名車である。根本さんは「いつでも快調に走ります」と誇らしげに語る。それもその筈、これほどピカピカで大切に扱われた“ドゥカティ”とは滅多に出会うことが出来ないからだ。マニアにとっては宝物と冨澤記者は興奮する。
 根本さんによると、数台の“ドゥカティ”を所有する友人に是非譲って欲しいと声を掛けていたが、長年の夢が叶ってやっと実現したとのこと。自分は、いつも預かっている気もちでいると語る。ディスプレイされたスーツの陰にさり気なく置かれる“ドゥカティ”、「何とも言えないノスタルジックな気分になる」と冨澤記者はうっとり眺める。

 一方、“ヴェスパ”は1964年製、映画「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックが乗った、あのスクーターである。根本さんは「足代わりに使っている」というが、こちらも手入れが行き届いてピッカピカだ。「ローマの休日」の名場面に登場する“ヴェスパ”を必ず記事にして欲しいと、冨澤記者経っての願いなので、オードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペック、そして“ヴェスパ”の場面を再現してみよう。

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 ヨーロッパ最古の王位継承者、アン王女(オードリー・ヘプバーン)は、 欧州親善旅行でロンドン、パリなど各地を来訪、ローマでは任務を恙なくこなす王女だったが、内心は分刻みのスケジュールと用意されたスピーチを披露するだけのセレモニーにうんざりしていた。就寝の時間になると侍従たちにヒステリーを起こしてしまう。
 主治医に鎮静剤を注射され、気が高ぶってなかなか寝つけない。彼女は、宿舎になっている宮殿を脱出、夜のローマをぶらぶら歩く。やがて、鎮静剤が効いてきてベンチに身体を横たえる。そこを偶然通りかかったのが、アメリカ人新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリー・ペック)だった。若い娘がベンチに寝ているのを見て家に帰そうとするが、アンの意識は朦朧としている。そのまま放っておくことも出来ず、ジョーは自分のアパートへ連れて帰る。
 翌朝、うっかり寝過ごしたジョーは、まだ眠っているアンを部屋に残したまま、新聞社へ向かう。支局長から「アン王女は急病で、記者会見は中止」と聞いたジョーは、そこではじめて昨晩の娘の正体がアン王女であることに気づく。王女には、彼女の身分を知ったことを明かさず、ローマの街を連れ歩いて、その行動を記事にできれば大スクープになると目論む。
 アパートで目を覚ましたアンは、思いがけない事態に驚くが、同時にワクワクする気分も感じていた。アパートを出た後も、せっかく手に入れた自由をすぐに捨て去れず、街をのんびりと散策、ごくふつうの女の子のように楽しい時間を満喫する。
 スクープに必要な証拠写真をおさえるため、ジョーは同僚のカメラマン、アービング・ラドビッチ(エディ・アルバート)を誘って、アンを連れてローマを案内する。二人乗りスクーター“ヴェスパ”で街中を疾走、いろいろな名所を訪ねる。夜はサンタンジェロの船上パーティーに参加するが、その会場でアン王女を捜しにきた情報部員たちが現れる。アンとジョーは情報部員相手に大乱闘を繰り広げ、一緒に河へ飛び込んで追手を逃れる。
 つかの間の自由と興奮を味わううちに、アンとジョーに恋心が生まれる。河からあがった二人は、抱き合って熱いキスを交わす。本当の想いを口に出せないまま、アンは祖国と王室への義務を果たすために宮殿に戻り、ジョーは彼女との思い出を記事にしないと決意する。その翌日、宮殿でアン王女の記者会見が開かれる。アービングは撮影した写真がすべて入った封筒を、王女にそっと渡す。見つめ合うアンとジョー。「ローマは永遠に忘れ得ぬ街となるでしょう」笑顔と共に振り向いたアン王女の瞳には、かすかに涙が光っていた。



(参考資料:ローマの休日 製作50周年記念デジタル・ニュースマスター版記事より抜粋)

テーラーとは
 Tailorを手元の英和辞書(『ランダムハウス英和大辞典』小学館)を引くと、(男子服を注文で仕立てる)テーラー、洋服屋、仕立屋とあって、その語源には初出が1297年で古期フランス語の「切る」という語から派生した、と解説されている。テーラーという言葉は13世紀末まで遡ることができるわけだが、その当時の服といえば袋のようなゆったりとしていて、仕立てる方もあまり腕の振るいようがなかったと思われる。テーラーの歴史は服装の歴史に重なる。どのような変遷をたどってきたのか、”The History of Tailoring” ( by G.B.Boyer ) で簡単に見てみよう。
テーラーの歴史
 中世期の服はルネッサンスの到来とともに衣服は次第に短く、タイトに変化していき、服作りも人の体形を意識したものに変わっていった。平らな布地をいくつもの部分に切り分け(カット)、縫い合わせることで立体的な人の体形に合わせた服を作り上げるようになる。17世紀中頃になると男子服の変化が始まり、それまで着ていたものからコート、ベスト、ズボンを着るようになり現代風の3点セットの原型が登場する。
 18世紀に入ると英国で男子服は、華美な装飾やフランス宮廷風なスタイルから離れ、新興のジェントリーや商人階級の好むはるかに地味な服装に移っていった。19世紀になるとこの傾向は宮廷にも浸透し、国王等の着る服と臣下の着る服にほとんど差がないような状態となった。そして産業革命のうねりの中で英国の服作りは、新興層向けに作り出された男子服のスタイルを進化させ、さらに、体形に合う(フィットした)服作りを進めた。英国文化が世界を席巻するに伴い、それにより、英国のテーラーがファッション界を支配するようになった。派手な装飾から離れる傾向が強まるにつれ、フィットするか、しないかは服作りの基準となり、そのためにテーラーにはより優れた技術が要求された。
 テーラーの服作りは機械化できないアートの境地に達する。人々は派手な表現より上品さ、簡潔さ、カットの完璧さをより好むようになる。テーラーは自らの服作りが一人ひとりのスタイル、個性のあらわれであることを確信している。今日、服装の世界が大量生産の時代を迎えるなか、テーラーはいずれ消滅すると言われたが、依然として個々の顧客本位の服作りと上質な服を武器に生き残り続けるとみられている。
テーラーの中心街サビル・ロウ
 テーラーの中心地はロンドン市内のサビル・ロウ(Savile Row)だ。一流の紳士服の仕立屋が多く並ぶファッション街である。英語でa Savile Row suitといえば仕立てのすばらしいスーツのことである。その街の老舗、Henry Poole & Coは1806年に創立された。父から事業を受け継いだヘンリーはサビル・ロウの創設者と呼ばれる。サビル・ロウの伝統を守ろうと設立されたホームページ(http://www.savilerowbespoke.com)には他の老舗のテーラー、Davies & Son,Gieves & Hawkes,Norton & Sons などの名が並ぶ。いずれも19世紀創業の店だ。しかしこれらの名になじみのある人は少ないだろう。テーラーは、顧客の注文で服を仕立てる店で、サイトの名にあるビースポーク(bespoke)の意味(服があつらえの)と同じである。大量生産して不特定多数の人々に服を提供するメーカーとは違って、テーラーの作る服は注文主の顧客にだけ合う唯一の、ユニークな服になるわけである。したがって、日本ではこれらのテーラーの名を知る人は限られてしまうことになる。
日本のテーラー
 さてテーラーという職業はいつ日本に誕生したのであろうか。日本が西洋文化に接した幕末と想像できるが、洋服ははじめ西洋服といったといわれる。福沢諭吉が慶応三(1867)年、彼の著書の『西洋衣食住』で西洋服のことを詳しく解説している。『福沢諭吉背広のすすめ』(出石昭三著)によれば、福沢は慶應義塾内に「衣服仕立局」を開き、塾生のために洋服を作り始めたそうである。同書から紹介する。
 西洋服を扱った最初の店は「富国屋」といい明治二(1869)年に日本橋で開店した。横浜の洋服商から仕入れていたそうだ。また日本人経営の初めての洋服屋は、横浜居留地で慶応三年に開いた「大和屋」であるが、万延元(1860)年、箱舘に日本人の洋服屋があったと言われている。和服の修理所にロシア人が洋服の修理を頼んだのがきっかけで、ロシア人の洋服を参考にして洋服を作るようになって、店の名を「木津洋服調達進所」といったそうだ。
 とにかく明治以降は文明開化ということで洋服の普及は目覚ましく、明治四(1871)年五月に発行の『新聞雑誌』には、「東京市中諸職人の中当時尤盛なるは軍服(ぐんふく)洋服(ヤウフク)の仕立屋なり」と紹介されている(小学館『日本国語大辞典』「洋服」の項)。
テーラー、洋服屋、仕立屋
 ちょっと横道の話。テーラーと洋服屋、仕立屋はどう違うのか。具体的にこう違うとはっきり指摘はできないが、仕立屋が少し古めかしい感じを受けるがどうであろうか。なにせ仕立てるという語は、「仕立て給える」という形で『源氏物語』にも使われている言葉だからそう感じてしまうのかもしれない。辞書(『同大辞典』)を調べれば、仕立屋は江戸期には使われていたことが分かるし、洋服屋は既に説明したように明治からで、テーラーは外来語として大正期の辞書に取り上げられている。ジョン・ル・カレに『パナマの仕立屋』(”The Tailor of Panama”)というスパイ小説がある。主人公の職業がテーラーでその邦訳題に仕立屋が使われている。ピーター・ラビットの童話の『グロースターの仕立屋』(”The Tailor of Gloucester”)も同じで仕立屋。映画にも『仕立屋の恋』というのがあった。どうやら文芸の世界では洋服屋は座りの悪い言葉のようで、仕立屋が好んで使われている。なお明治時代のスリの親分、「仕立屋銀次」は銀次が元和服の仕立て職人だったのでそう呼ばれたのだそうだ。洋服を作ってはいなかった。
LID TAILOR STORY
 根本さんは幼少の頃、母親が子供の服をミシンで縫う姿を目の当たりにしてきた。その潜在映像から洋服づくりに関心を抱き、この道をめざした。高校卒業後、服飾専門学校に進み、アルバイトで貯めたお金でお気に入りのテーラーで洋服を作った。福生の横田基地を拠点にしたアメリカナイズされた雰囲気の店でお洒落なオーナーに憧れていたからだ。
 専門学校卒業間近の頃、オーナーから卒業して何をするか決まっているのかと聞かれた。何も決めていないと答えると「それじゃあ、うちに来ないか」と誘われた。そのテーラーで10年ほど修業した。店の先輩から独立するので手伝って欲しいと誘われ、4年ほど一緒に仕事をした。その内に自分も独立して独自のスタイルで洋服づくりをしたいとの思いが強くなっていった。
 根本さんは1960年代にロンドンで発祥したモッズカルチャーが大好き、ビートルズやローリングストーンズの大ファンで、彼らの着ているスーツがカッコいいと思っている。着る側から作る側に代わっても、その思考軸は変わることはなかった。
 西荻窪の五日市街道添いに店を借りてスタートした。その後、今の場所に移転してLID TAILORという店名にした。今年で10年目を迎え、伊勢丹メンズ館や三越と取引するまでに発展した。
 冨澤記者が、テーラーなのに何故バイクとスクーターを置いているのかと質問すると、根本さんは「僕の周りには、趣味に共感して集まって来る仲間がいる。物で溢れる社会にあって、『これはカッコいい、これはカッコ悪い』とジャッジ出来る人達だ。彼等は服の選択にも自分らしい感性を発揮する。単に仕立てだから良いというのではなく、いろいろあるデザインの中から、根本スタイルを選んでくれる、それがLID TAILORの客層。“ドゥカティ”や“ヴェスパ”を愛する気もちと、テーラースタイルは重なると私は考える。特別に誂えた服は流行が終わっても、思い入れがあるから大切に着る人が多い。つまり、自分だけのものを大事にする精神が根づいている。いつまでも着続けられる服を作るのが、自分の基本コンセプト。時代に逆行しているかも知れないが、そこに共感して貰える顧客は沢山いるはず」と根本さんは語る。
 仕事で使う道具にも、根本さんのカタチ意識は強く感じられる。LID TAILORを杉並区松庵に開業した時、近所に老舗のテーラーがあった。挨拶に訪ねるとオーナーは90歳、高齢で廃業するのだという。ついては、60年使ったミシンを根本さんに貰って欲しいと願う。年代物で今では入手できない素晴らしいミシン、根本さんは綺麗に磨いて自宅に保管している。いずれは店のシンボルとして店に飾りたいと考えている。ハサミもイギリス製を好んで使う。日本製に比べると切れはよくないが、何ともいえぬ味がある。根本さんのカタチ好きは、テーラーの真髄を追求する源なのかも知れない。「楽しく仕事をするテーラーは、きっとよい服を作る」根本さんは、そう信じて止まない。
 テーラーになる人間は、縫製や物作りが好きとかいうのがベースにある。僕はストリート、モッズから服を始めた人間、だから凝り固まるのが大嫌い。10年後に同じ服を作り続けているか自分でもわからない。毎年よいと思うものが、多様に変わるという発想からだ。
「僕は『職人一筋』とは、真逆の立場をとっている。勿論、縫製やカットの基礎技術は十分に習得していなければならないが、規則を重んじて縫製服だけを作っていたらテーラーとは言えない。テーラーの仕事は、その上にあると考えている。ネットが発達して要望も多様化している。リッド・テーラー・スタイルと合致する人に来てもらえればよい。誰にもわかって欲しいとは思わない。顧客が、わざわざ西荻まで訪ねてまでもリッド・テーラーの服を買い求めたい。そういう店であり続けたい」

 根本さんは穏やかな人柄だが、秘めたる強さを温存しているように思えた。

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LID TAILOR
BESPOKE SUITS AND SHIRTS
〒167-0054 東京都杉並区松庵 3−31−16 #103
TEL&FAX 03-3334-5551
Mail: lidtailor@jcom.home.ne.jp

http://www.lidtailor.com/

文: 冨澤信浩&鈴木英明
写真: 澤田末吉(ローマ画像)&奥村森(リッド・テーラー画像)

取材日 2016年11月28日

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西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん

縁ある同士、必ずどこかで結ばれる
 ここに一冊の本がある。昭和41年に読売新聞社から刊行された写真集「人間国宝」。昭和23年に写真師により結成された新生写真協会メンバーが撮影した写真だ。

 人形浄瑠璃・文楽太夫、十世・豊竹若太夫の楽屋から退席するさりげない姿。人形浄瑠璃・文楽人形、二世・桐竹紋十郎の緊張感漲る舞台と楽屋での一枚、自宅で撮影した人形を動かす写真は斜逆光線を生かした写真師ならではの傑作。京都で撮影した染織・有職織物・羅の喜田川平朗の品格溢れる肖像。滅びゆく玉藍のユカタを墨田区の自宅で切なく制作する染色・長板中形の清水幸太郎。文京区にある自宅工房の空気を巧みに表現した蒔絵師の松田権六の仕事場風景。

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上段左と中央は清水幸太郎、右は桐竹紋十郎 下段左から豊竹若太夫、松田権六、喜多川平朗(読売新聞社発行『人間国宝』より)

 これらは新生写真協会メンバーのひとりで、昭和七年に西荻窪で写真館を開業した故・高木文二さんの作品である。
 写真師、あまり聞きなれない言葉だが、写真館のカメラマンをそう呼んでいたのである。今ではデジタルカメラで誰もが簡単に写真を撮ることが出来るが、フィルムを使うアナログカメラ時代には、写すこと自体が至難の技であった。上流階級から庶民に至るまで、写真館での記念写真は人生の大切な記録として浸透して行ったのである。
 西荻春秋の取材先を探すため、いつものようにスタッフは西荻窪の街をぶらりぶらりと歩いていた。すると、スタッフのひとりで生粋の杉並っ子の窪田幸子さんが住宅玄関先で婦人と話を始めた。その住宅のある場所には昔写真館があった。窪田さんは写真を撮ってもらった思い出があり、婦人は、そこの写真師の高木文二さんの子息、昇さんに嫁いできた都さんだったのだ。
 窪田さんには子供の頃から成人式に至るまで、高木フォトスタジオで記念写真を撮って貰った思い出があった。社会人になってからは、言葉を交わす機会はなかったが都さんは憶えていてくれたのだ。写真師は、自分で撮った写真は全て記憶しているという。当時、都さんは顧客の髪や衣服を整える手伝いをしていたのだが、義父の文二さんを尊敬していたこともあり、懸命に仕事をしていたので写真師に負けず劣らず鮮明に憶えていたのだろう。
写真館のある風景
 昭和12年、昇さんは文二さんと輝子さんの長男として生まれた。幼少期、彼は祖母にとりわけ可愛がられた。幼稚園通いはいつも付き添い、怪我をしないようにと50cmの高さから飛び降りることもさせないほどだった。そんな祖母が口癖のように昇少年に伝えた言葉があった。それは、「親の職業から離れたら駄目」であった。
 小学校は近くの高井戸第四小学校に通った。しかし、昭和19年、 空襲で校舎が焼失、生徒達は高井戸第二小学校と桃井第三小学校に別れて授業を受ける混乱期を迎えた。だが、有難いことにスタジオと家は焼けずに残った。
 高校は日大二高へ、クラブ活動は美術部に参加した。美術部主任であった日本画家・上林教諭から構図や空間表現を学び、創作に関心を抱くきっかけとなった。そして、大学は日本大学芸術学部写真学科に進んだ。これには文二さんの大きな期待が込められていた。昇さんを「写真館の跡継ぎにしたい」との強い思いがあったからだ。当時の教授陣は少数ではあったが、報道写真家の草分け、渡辺義雄、写真芸術論や写真史の第一人者、金丸重嶺など、優れた指導者が名を連ねていた。
 ある日、昇さんは渡辺教授に「どうすればよいのですか」とノウハウについて質問したことがあった。すると教授は「僕が言うことじゃないから、盗んで上に行きなさい」と答えた。先輩の後姿を見て学ぶ時代だった。
 写真界は木村伊兵衛と土門拳の全盛期、そしてアメリカ広告写真が流行。写真家は、若者にとって一躍憧れの職業となった。同期生に日本写真家協会会員で作家活動を現在も続ける立木寛彦(たつきひろひこ)がいた。彼の実家も写真館であったが、作品づくりがしたくて創作の道を歩んだ。昇さんも、世に認められてからも助手にシャッターを押させない土門拳の姿勢に尊敬の念を抱いていたが、写真家への道を目指すことはなかった。
 大学を卒業すると社会勉強のため、浜松町の広告写真スタジオで修行した。流行最先端の職場ではあったが、父の仕事を継ぐ覚悟に迷いはなかった。創作活動は休日に建築写真を撮りに出かけるのみであった。
 助手として下準備をし、あとは文二さんがシャッターを押せばよい状態にセットアップするのが、昇さんの仕事だった。その他に西荻窪駅前の「こけしや」や教会での結婚式撮影も請負、多忙な毎日を過ごしていた。

 ある日、縁あって都さんと出会い、結婚することになった。父と親しかった写真館の草分け、写真師で肖像写真家でもある吉川富三が二人を祝福して婚礼写真を撮ってくれた。吉川は自然なライティングを駆使する写真師として知られていた。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-7-1024x579.png です左は祖母と両親の遺影を掲げる昇さん、右は昇さんと都さん

 吉川との出会いは、昇さんの写真人生に大きな影響を与えた。写真師は創作写真家に比べると、芸術家としての評価が恵まれない傾向にあった。吉川は著名人の肖像を写真集にすることで、地位を高めようと努めた。昇さんは、建築を主題に独自性を強調しながら、写真館組合が発行する雑誌「JPC」に掲載したり、毎年開催される日本文化協会全国展・関東写真家協会展に出品したりと、大いに吉川からの感化を受けた。
 文二さんは、第68代総理大臣・大平正芳、20代の頃の俳優・森繁久弥、子役時代の女優・松島トモ子、久我山に在住していた洋画家・東郷青児、松庵に在住していた文学者・金田一京助、女優・京塚昌子などの肖像を残している。杉並区高井戸に住んでいた歌人の木俣修は、文二さんの作品を「これは本当の芸術だ」と称賛した。

 昇さんも、三笠宮崇仁親王、日本経済団体連合会第4代目会長・土光敏夫などを撮影している。土光は「撮った写真を全部見せろ」という。カメラマンは、よい写真を選んでプリントして渡すのが常識だ。安定した実力がないと要望に従うのは難しい。昇さんは覚悟を決めて見せることにした。土光は「この写真気に入ったから買う」と言う。売る訳にいかないから、嬉しさもあって寄贈したという。都さんは「私、土光さん大好き、ぴしっと筋が通っていたから」と褒め讃える。よい写真には人柄まで写るものなのだ。写真師二代、見事な仕事ぶりである。

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上段左から東郷青児、松島トモ子、金田一京助 下段左から京塚昌子、土光敏夫、森繁久弥 (杉並区立郷土博物館所蔵)

写真館が消えた日、時代も変わった
 昇さんと都さんは、建築を学んだ長女・朋美さんから古くなった家の再建提案を受けた。昇さんは、文二さんの写真館を守りたい一心で抵抗してきた。しかし、東日本大震災の揺れは尋常なものではなかった。「お母さん、絶対危ないからお父さんを説得して」と娘さんから懇願された。平成25年、ついに意見を受け入れた。

 昇さんの気もちを察した長男・昭彦さんから「せっかくだから、お父さんの写真を飾ったら」と居間にギャラリー、玄関にショーウインドーが設けられた。ショーウインドーの写真はスタジオを知る者には懐かしく、知らない者には謎めいたものとなった。

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玄関先のショーウインドーと居間のギャラリー

「昇さんは手間の掛らない頑固者、学生時代からずっとお父さんに尽くしてきました。一方で自分の世界も遠慮しながら貫いてきた。昇さんにとっても、スタジオが無くなれば縛られることなく、好きな写真を自由に撮ることが出来るのでは、私は賛成、よかったと思います」と都さんは語る。
 最近のカメラ事情について「デジカメは簡単、数打ちゃ当たるだろうって、趣味で写真団体に参加する友人が言うけど、作品を見ると数ある内の一枚だってすぐわかる。僕の考えとは根本的に違う。彼には何も言わないけどね、今は写真サークルの6割が女性で、誰でも簡単に写せることを望むから」と昇さん。
「昇さんの気もちはわかるけど、年取ってきた人が楽しむという考え方もあるでしょう。それもありかなって思うの。手伝いだけで写すことをしない私から見ると、極めるという以前に下手だからと諦めていたことが可能になって、写真ってこんなに面白いものかと再認識したのよ」と都さん。
 誰もが写せるようになると、写真館の仕事も先細りとなる。親の職業を子が継承するのも難しい時代になった。娘の朋美さんは写真センスがあり、機械にも強いから跡継ぎには最適な人材。しかし、彼女は建築を学び写真から離れた。昇さんが興味を抱いた建造物への道、これもある意味で親子継承なのかも知れない。
記録の行方
 スタジオのない生活は、昇さんを変えていった。雑誌投稿、写真展出品、コンテスト出品など、より意欲的に創作に取り組むようになった。雑誌では「最高賞の総理大臣賞受賞が目標」と積極発言をする一方、「賞より新しいものを撮ることが出来たら幸せ」と謙虚さも覗かせる。「体力と感性がある限り作品づくりをしたい。僕は、写真を撮りながら棺桶に入るのが理想」と語る。
 写真を撮るには肺と腹筋を鍛えることが大切と体力づくりに努める。昇さんは、若い頃から『弓道』をしていた。しかし、父に代わって仕事をしている内に筋肉が衰え、弓を引くことが出来なくなってしまった。それからは、弓に通ずる礼儀作法で親しみやすい『スポーツ吹き矢』にチャレンジすることにした。現在キャリア2年目を迎える。また、時間があれば長靴を履いて今川まで30分ほど自転車を走らせ、区民農園で畑仕事をする。食べきれないほどの収穫があるという。
 文二さんが亡くなった時、杉並区郷土博物館に肖像写真の一部を寄贈したことがあった。写真館閉鎖に伴って、30人分のポートレート、計58点の写真と機材一式を改めて贈呈することにした。
 写真記録というと、誰でも「動の記録」である報道写真を思い浮かべる。しかし、文二さんと昇さんの仕事は「静の記録」、さりげない毎日の積み重ねが百年後に偉大な記録となる好例だろう。

 これから杉並区郷土博物館で作品に触れるたび、ベレー帽をかぶり、洋服を茶で統一したおしゃれな文二さん、律儀な頑固者、そして謙遜の人、昇さん、親子写真師二代の姿が思い浮かぶに違いない。

文: 奥村森 写真: 高木文二、高木昇、澤田末吉
取材日 2016年9月16日

ー 肖像権許諾にご尽力頂いた方々

高木昇&都夫妻、杉並区郷土博物館、金田一秀穂様、森繁建様、松島トモ子事務所様、ギャラリー・コンティーナ様、橘学苑様。京塚昌子さんに関しては、ご遺族の所在不明のため肖像権許可なしに掲載しております。
肖像権者の方がご覧になりましたら、是非ご連絡下さい。

ー 参考資料 ー

読売新聞社 写真集「人間国宝」

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緩やかな時間が流れるジーンズショップ 「オークランド」

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西荻窪駅の南口を出て、ピンクの象さんで知られる仲通り商店街に入る。その右手、象さんの横にあるのがオークランドである。
店に入ると心地よい音楽が流れ、どこかリラックスした雰囲気が漂う。カジュアルな衣料と共にジェームス ディーンのポスター、古時計、そしてラグビーボールが目に止まる。
店主は二代目の多田裕昭さん。裕昭さんの父、貞蔵(ていぞう)さんがアメリカの中古衣料を扱う店をここで始めた。昭和26年のことである。裕昭さんが生まれた年だ。今年で65年になる。
貞蔵さんは山形から上京し、苦学して蒲田の工業高校を卒業した後、東京の会社に職を得た。そして戦後すぐ、貞蔵さんの兄が呉服屋をやっていた西荻窪の今の場所に移り住み、商売を始めた。
アメリカの中古衣料が出発点。お店は繁盛しました

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「戦争が終わってあまり着るものがなかった時代だったんですね。アメリカの中古衣料をこっちへ送ってきて、洗い場に行って洗ったり、プレスしたり、直したりしてお店に出していました。今では中古屋さんは多いですけど、その頃はそんなになかったのでお店は繁盛していました」
朝は9時くらいから夜は11時まで働き、お店を閉めてからも値札をつけたりして、夜中の1時くらいまで裕昭さんのお母さんたちは働いたそうである。
「西荻の店をやっていた私が小さかった頃、バザーといって宇都宮だとか日本各地の体育館にトラックでいろいろな品物を運んでは売っていました。品物がない時代だから物凄く売れた」
「西荻の店では従業員含めて12人くらい寝泊まりしていました。開店して間もない頃、オープンリールと言ってテープデッキなんて珍しかった時代、大きなテープに案内を録音してトラックで街を廻って、体育館でバザーをやってたんですね。だから、ちっちゃい頃はほとんど家に居なかった。帰ってくるといろいろな玩具をいっぱい買ってきてくれましたね。相当なワンマン社長でしたが、涙もろくて熱い人でした」

西荻の店が好評で、山手線の大塚の駅前と、荻窪(現在のタウンセブンの地下に当たる場所)と合わせて三軒の店を構えた。また別荘を千葉の御宿、そして山形の蔵王のそばに持ち、夏は御宿、冬は蔵王と、裕昭さんは夏も冬も真っ黒になるほど色々と連れて行ってもらったという。

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父は武道が好きでした
「父はもともと剣道とか柔道など武道が大好きでした。高井戸第四小学校というところに僕達(裕昭さんは姉、裕昭さん、妹、弟の四人兄弟)は行ってたんですが、そこでPTAの会長に就いたのがきっかけとなり、剣道教室(尚武会)を始めました。それが今年で50周年を迎え、今では大会で優勝するようになりました。居合は段を持っていて、明治大学(白さぎ会)で教えていました」
昭和48年、ジーンズだけを扱うお店に。そして一番忙しい時期を迎える
「昭和48年、僕が学校を出たくらいからジーンズだけのお店に変えました。その頃はエドウィンとかビッグジョンとか日本のメーカーがどんどん出始めた時です。昔、エドウィンの常見さんという社長さんとお友達で、一緒にやっていた関係でジーンズだけにしたのです。その当時はね、ジーンズブームということもあり、大学生がアルバイトをさせて欲しいと随分来てましたね。この店もアルバイトが沢山いました。大塚の店も含めると、一番多い時には20人くらいいたのかな」
「僕が大学を出る頃はジーンズが日本中流行っていました。丁度その頃、ベトナム戦争が終わってアメ横で軍隊の払い下げのカーキ色のジャケットを売っていました。アメリカで安く仕入れて日本に持ってくると、ものすごく売れたんです。いろんな階級章が付いていたりして。それがその当時の反戦運動の象徴でしたから、多くの人が買いに来ました」
自然な流れで家業を継ぐことに
「僕は教職をとって先生になろうと思っていました。だけど、当時学校に行っても、教室に全学連が入ってきて授業が中止になり、ちゃんとレポートを提出すれば教職課程も取れたんだろうけど、お店が忙しいので手伝わなきゃどうにもならない状況でした。そうして自然に家業に携わるようになりました。大塚の店は人が少なかったので大変でした。カレーうどんが好きで出前を頼んだのですが、忙しくて食べる暇がない。夕方にやっと箸を入れると、そのままカレーうどんが持ち上がったということがありました」
「昭和57年に、新婚旅行でニュージーランドに行きました。ラグビーがとても好きだったので、オールブラックスの国に行ってみたかったのです。その時にオークランドという町に行きました。とても綺麗な街でした。その名前が今の屋号の由来です。アルファベットの木工文字を買ってきて、それとニュージーランドの国鳥であるキーウィーを元に自分でアレンジしました」
「オークランドと命名するまではつるや貿易という名前でした。昔ジーンズのお店はみんな何々貿易っていう名前を付けてたんですよね。うちも法人名としては残っています。屋号はオークランド。昔僕が小さい時はアメリカ屋という屋号を使ってました。アメリカ屋は昔、ジーンズショップの総称みたいな感じでした」
「子供の頃、小学校にジーンズを履いていったら、ジーパンは普通の洋服よりも格下のイメージだったんでしょうね。子供心にちょっと馬鹿にされていたのかなという気がしました。酷いいじめのようなものではなかったですが、アメリカの作業服を売っているお店は、普通の衣料品店より格が下といったイメージがあったのでしょう」
ジーンズもトップ3の時代から新しい時代へ
「昭和48年、一番忙しい時期を過ぎ、それからいろんなメーカーがジーンズを売り始めました。40年を過ぎ、ユニクロやギャップというような大型店に替わっていった。現在、うちは日本で初めて国産ジーンズを作った岡山のメーカーKappaジーンズを扱っています。シリアルナンバー入りで、職人がひとつひとつ手作りで縫製した、こだわりのジーンズです」
ジーンズ以外で主に扱っているのは、男性はUniversity of Oxford、女性はブルーベルというブランドだ。これまでいろいろなブランドを扱ってきたが、この二つのブランドが西荻窪の顧客にぴたりとはまり、喜ばれているそうだ。
父にはいつもお説教をされていた気がする
「うちの父は苦労して商売をしてきた人だからいつも僕が言われたのは、お前は真剣に生きてないって、その言葉はちょっと違うかもしれないけど、なんか人生をなめているみたいなことをいつも言っていました。いつもお説教をされたような気がします。とにかくお説教が大好きでした。まあ、それだけ心配だったんだろうと思います」
西荻窪はみんなゆったり、のんびりしているように思うと裕昭さん。「阿佐ヶ谷辺りと比べると、やる気があんのと言われちゃうけど、その代表だね。私は」と笑う。長く続く秘訣はと訊くと「うーん、なんだろう、流されるままにかな」

この店の何処か緩やかな時間が流れる、リラックスできる雰囲気の理由がわかったような気がした。

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ジーンズショップ オークランド
住所:東京都杉並区西荻南3−10−10
電話:03-3333-6032
営業時間:12:00-22:00
定休日:元日のみ

JR西荻窪南口 仲通り商店街

文:小野由美子 写真:小野英夫

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天草の夢を靴づくりに託して

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それは路上の靴磨から始まりました
 注文靴の製作と靴と鞄を修理する天草製作所は、西荻の乙女ロードにあります。この店のオーナー、西森真二さんは熊本県天草生まれの47歳、青年のように若いです。彼は、福岡県の大学を卒業して東京にある広告代理店に就職しました。いつかは一国一城の主になりたいという夢を抱きながら10数年間、その代理店で営業の仕事に従事しましたが、「このままでよいのだろうか」ともやもやした気もちで日々過ごしていました。「もう一度、足元から自分を見つめ直したい。路上で靴磨をすれば、見えるものがあるかも知れない」と決意、それを実行に移しました。37歳の時でした。
出発地は中目黒駅のガード下、そして試練の時を迎えます
「会社を辞める際、社長からこれからどうするんだと尋ねられました。靴磨きをしたいと答えると、頭がおかしくなったのかと嘲笑されました。両親からも、どうしてそんなことするのかと心配されました」
「これまでの経歴やプライドを捨て、誰もが望まない路上での靴磨きをすることで、己の固定概念に囚われる殻から脱皮できるのではないか。その時は、まだ独身だったので決断できたのだと思います」
「場所は中目黒のガード下、怖さと恥ずかしさから逃れるように無我夢中で靴を磨いていました。そんなある日のこと、お客様からこの靴いいだろうと言われました。しかし、どこがよいのか判断がつきません」
「 そんなことも理解出来ないで、靴磨きは続けられないと考え、浅草にある靴の専門学校に通い始めました。靴の構造や革の種類や特性に関する知識が高まるにつれ、物づくりの面白さにのめり込んでいきました」
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今の夢、New Yorkに店を開きたい
「店名を天草と命名したのは、故郷天草の名に恥じない仕事をして大好きな天草を大事にしたいという思いからです。オープンして3年目ですが、店の看板を見て熊本県出身のお客様が沢山来訪して下さいます」
「帽子にもNew Yorkと書いてありますが、ボクってミーハーでNew Yorkが好きなんですよ。この店のデザインもNew Yorkにあるような店づくりにしたいとこだわりました。何時の日かNew Yorkに店を出したいという希望もあるので」
「西荻には個性的な店が数多くあり、自分の店づくりのイメージにはピッタリな場所です。お客様から革細工や靴づくりの教室を開講して欲しいという声もあるので、この街ですることはまだまだあります」
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お店は常に整理整頓、清潔をモットーに
「オーダー靴はかなり高価ですから、妥協や中途半端は許されません。一足作られてから2カ月後にもう一足頼むと来られるお客様もいます。本当に有難いと感謝しています」 店内には、靴注文と靴や鞄の修理受付窓口だけでなく、手縫いのペンケースや子ども靴などひとつひとつに西森流のこだわりを込めたレーザーグッズが整然と並んでいます。
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「今スタッフは、妻の麻里を含めて4人で切り盛りしています。スタッフの中には、将来自分の店を持ちたいとの夢を持っている者もいます。自分と思いが一緒なので応援したいと思います。店は子供、スタッフは家族のようなもの。スタッフも店のコンセプトを理解して積極的に意見を言ってくれるので嬉しい、自分の店だから自分が正しいのではなくスタッフ全員の店でもあります、人も育てたい、チャンスには何時でも動くことが出来るように攻めの姿勢でいたいと思っています」
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 西森真二さんの夢は、まだまだ大きく広がります。西森さんの天草の青年のような気もちが震災で落胆している熊本の方々に届きますように。

追記:この取材後、西森さんは大病を経験されましたが、病魔を乗り越え新宿店を開設されました。このエネルギーには感心させられます。 編集担当

天草製作所
〒167-0053 東京都杉並区西荻南2-7-5
Tel & Fax 03-3334-6822
E-mail:info@amakusafactory.com
西荻窪南口 アーケードを抜けて乙女ロード徒歩5分左側
営業時間:10時~20時(日曜日、祝日~19時) 定休日:水曜日
文:冨澤信浩 写真:澤田末吉
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和菓子の 「三原堂」 顧客に愛されて80余年

西荻北 「三原堂」 三代目当主 田中好太郎さん

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 西荻窪駅北口を出て北銀座通りに向かう。三井住友銀行を右手に見ながら少し進むとローソンの丁度向かいにあるのが三原堂である。
 店内に入ると季節の生菓子、最中、おせんべいなどが目に飛び込んでくる。お客様もひっきりなしである。買い物帰りの年配の女性、片手にコーヒーを持った若い男女のカップル、注文の品を取りに来た中年の男性と、老若男女幅広い客層に驚かされる。
祖父が新潟から上京し、西荻に出店

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-12-1024x439.png です昭和30年代写真、一番左が創業者の祖父の吉雄さん。隣が妻・好野さんと従業員の方々。昭和27年制作看板、横幅9尺、高さ3尺2寸、厚み2寸、重量65貫目

 西荻の三原堂は昭和10年創業。西荻で二番目に古い和菓子屋である。現在の三代目好太郎さんの祖父吉雄さんが店を構えた。吉雄さんは新潟県小千谷市出身で農家の次男坊。大正初期か中頃、東京に出て四谷の三原堂で丁稚奉公を始めた。(現在でも人形町に本店を構える三原堂は明治10年創業で、その支店が当時は四谷にもあった。)
 その後何年か働いて独立し、暖簾分けされる際、場所は幾つか候補があったが、最終的に吉祥寺と西荻窪に絞った。「うろ覚えなんですが、三鷹の方にお客さんがいたらしく、祖父は電車あるいは歩きでこの辺りを通ってたんですね」
「昭和8年に、幾つかの候補の一つであった旧井荻村(現在の西荻一帯)が区画整理されたんです。隣の高井戸村は田んぼの区画割そのまんまなんですが、旧井荻村は碁盤の目のような区画割で、おそらく住宅の誘致も始まっていた頃だと思われます。お役人さん、今でいう公務員ですね、それから初期のいわゆるサラリーマンが移り住んで来ると思ったわけです。農家の場合は自分の家でお餅をつくけど、彼らはお餅を家でつかないので、和菓子の商売にはいいのではないかと考えたようです。当時は店のそばの信号から北側の向こうにある本町会商店街(今の100円ローソンより北側)が西荻の中心地だったので、ここから南の駅までの間は何もなかった。しかし、これからは駅に近い方がいいということで駅前に店を構えたんですね」
祖父はマメで好奇心旺盛な人
 創業当時の大福帳が今でも大切に残っている。「初日が金105円。昭和10年頃の物価でいくと現在の30万円位。開店のご祝儀もあったかもしれないけど売り上げは結構良かったんですね。他はもっと少ないですけど。」と三代目の好太郎さんは笑う。
 昭和10年の年末のお餅の注文票もある。「関根町、今の上荻4丁目ぐらいだと思うんですけど、中野区の上高田、井荻、松庵、結構三鷹の方まであるんですね。他にお店がなかったんでしょうね。だからそういうところまで配達に行ったんですね」
 昭和11年のスタンプカードも見せていただいた。当時としては斬新である。「30銭お買い上げで一個捺印。今でいうと\1,000で一個捺印。\15,000お買い上げで映画券が一枚付いてくるぐらいのもの。結構割がいい。その頃の映画館って高かったですよね。今でいうとディズニーシーの入場料くらいの値段ですよね。」
 昭和12年頃の新聞の切り抜きを切り貼りしたものも結構残っているそうだ。創業者の吉雄さんは好奇心旺盛で、東京のどこかでこういうセールをやってお客さんが集まったとか、アイスコーヒーの作り方とか情報を熱心に集めていたそうだ。
長年愛される理由は手作りの味
「和菓子も大手さんとかはオートメーション化をしたり、便利な材料ができたりした時代があるわけです。売り込みもあるわけです。機械でお饅頭が作れますよとか、これ入れれば一日しか持たないのが一週間持ちますよとか。でもうちはやらなかったです。昔ながらの手作り。かなり面倒臭いですが、端折らないでというのを今でもやってます。その味を西荻のお客さんがわかってくれるんじゃないかと。それで続けていけてるんじゃないかと思ってます。」
大切にしているのは素材、手間、技術

「お菓子を作るポイントを挙げると昔から素材、手間、技術という感じですかね。素材は安心できるものと昔から使っている材料を守るようにしています。手間は省かず。例えばお餅。機械に頼らず手でこねることにより味が全然違います。そういうところを省かない。技術は職人さんが持っている技術。綺麗に美味しそうに見えるようにと。」

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N003-15-1024x439.png です初代吉雄さんが作成した季節のお題目ノート職人さん達がこの題目にヒントを得て季節の和菓子を創作したというアイディアノート的なもの。

三世代にわたる顧客

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N004-11-1024x439.png です昭和47年鳥一の隣にあった頃、かしわ餅を求めて並ぶお客様

「西荻窪の和菓子屋さんは完全に住み分けができていてバッティングはしません。顧客は代々西荻の方が多いです。西荻はまだ三世代家族が多い。おばあちゃんからお子さん、お孫さんに引き継がれています。」

「デパ地下に入っているお菓子は人にあげるもの。うちのお客さんは自分で食べるために買いに来るので手を抜いたら怖いですね。例えば支店を出して、そこでもまた売るというほど作れるかというとそれだけの量を作れないです。今がちょうどいいくらいで、どんと売り上げを伸ばすとかそういうことは考えてないです。」

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N005-8-1024x585.png です三代目当主 田中好太郎さん 三原堂のパッケージデザインは全て粛粲寶(しゅくさんぽう)によるもの  *粛粲寶は(1902~1994年)享年93歳。新潟の生まれで、のちに東京に住して洋画を黒田清輝に、日本画を小林古径に学んだ。花鳥、静物、人物画を得意とした日本異色画家と呼ばれる

 サラリーマン時代はマーケティングに携わっていたという好太郎さん。お客さんが何を求めているのかをきちんと受け止めて、昔ながらの味を大切に守り続けていこうとしている。
 店頭で年配の女性が言う。「うちは両親の時代からここなの。だからどこに何があるか見なくてもわかるのね。今日は孫に頼まれておせんべいを買いに来たのよ。孫はここのおせんべいが好きでね。」

 西荻で三世代に亘り愛されている三原堂。その原点は創業以来、今も脈々と受け継がれているのである。

三原堂
東京都杉並区西荻北3-20-12 グラツィオーソ 1階
 03-3397-3998 FAX: 03-3397-3997
営業時間:9:00~19:00
定休日:日曜日
JR西荻窪駅 北口 徒歩1分

信号を渡り『カルディ』より4軒目左手『ローソン』の向かい

文:小野由美子 写真:澤田末吉

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「てんぷら矢吹」 この道60年

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 最初に揚げたての車海老を口元にはこんだ瞬間、何とも言えない香りを感じました。「ワァー、これは…..」。もう言葉がありません。皆さんもぜひ、「てんぷら矢吹」に足をはこんでみてはと思います。

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修学旅行での感動

 矢吹恭一さんは神戸で生まれました。中学の修学旅行で東京に来たとき、自由時間にお兄さんの働く銀座「天一」を訪ねました。そこでご馳走になったてんぷらに感動しました。自分もこういうてんぷらを作りたいと強く思い、卒業後上京して「天一」で働くことになったのです。新入りは自分ひとり。朝から晩までだいこんをおろした日、つらい事やくやしい思いもしました。「いろいろありましたが今はそれが全て役にたっています」と笑顔で話しました。19年修行して、独立は35歳のとき。「天一時代、とても懇意にしていただいたお客様が、骨を折ってくれました。その方との出会いがなければ今の自分はなかったでしょう。」と、とても恩義に感じていらっしゃるようすでした。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N003-17-1024x585.png です

「店を出せばお客が来るというものではない!」
「天一」創業者の言葉です。高井戸には、同業のお店もたくさんあります。1年半位は苦労しましたが、お客様がお客様を紹介して、経営も軌道に乗ったそうです。「口伝えで少しずつ軌道に乗って行きました、お客様のおかげです。本当にお客様に感謝しております」と当時を振り返りました。
 自分の作ったてんぷらに合うお酒にも深いこだわりがあります。いま出している日本酒は「玉の光」「羽黒山」、ビールは「キリン一番搾り」。お酒の話題になると、矢吹さんの顔もほころび話が弾みます。
「人気の銘柄で入手困難なお酒でも絶対に品切れをおこさない、てんぷらとお酒を楽しみに来られたお客様に『お酒が切れています』ではガッカリされるでしょう。こんな失礼はありません」。と、少し強い口調になりました。
労を惜しまず、心、からだで伝える

「労を惜しまない」。これがてんぷら矢吹のモットーです。いつもこの姿勢を忘れずにまな板と鍋の前に立ってきました。現在は、サラリーマンを経験後、料理学校に通った息子さんと二人で店を切盛りしています。もちろん、カウンターの中では息子 優行さんもてんぷらを揚げます。「将来は息子にとの思いはあります」と話していましたが、75歳の矢吹さんはとてもお元気です。てんぷら一筋の人生はまだまだ続くことでしょう。

てんぷら 矢 吹
東京都杉並区高井戸東3-28-24 ドムス高井戸1F
03-3334-0070
営業時間:11:30~14:00  17:00~21:00
定休日:毎週水曜日、木曜日(定休日が祝日の場合は営業します)
* 定休日の情報は2017.1.11に確認、変更させて頂きました。
京王井の頭線高井戸駅下車
環八を北へ徒歩8分 環八井の頭交差点を
右へ井の頭通りを永福町方面へ50m右側
JR荻窪駅南口 バス4番乗り場「芦花公園行」下車10分
バス停「井の頭通り」下車1分 駐車場4台

文: 冨澤信浩&岡村繁雄 写真: 奥村森

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 昭和の文化人に愛された「たみ」 

及川ヤスエさんの人生
 福岡から上京してきた姉妹が紡いだ物語。
 西荻窪の居酒屋「たみ」と国立の「関民帽子アトリエ(現atelier Seki / アトリエ関)」。東京という文化の中心地に飛び込んで夢をかけた二人の物語がここにある。
 西荻窪駅南口から銀座通りをすすみ、郵便局の反対側の路地をまがると「たみ」はある。この辺りの店は概してそうなのだが、昼間はひっそりと目立たないのが多い。夜になるとトマリギ的な雰囲気を醸して客を魅了する。たみはそのなかでも更にひっそりと佇んでいる。
 入口の扉を押すと、視線は自然、お客の背を飛び越えてヤスエさんに向かってしまう。言葉を二、三交わしてから席に落ち着いて、おもむろに相客に挨拶をする。そんな雰囲気なのである。ふらりと店に入ってきてはおのおのカウンターに座って一人酒を傾けながら、及川さんと掛け合い話、と思うと隣、はたまた遠く離れた席とも飾ることなく議論に花を咲かせる。相応しくない客はそこにはいない。

 平成二四年の桜の季節。ヤスエさんは引退した。

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 この街には多くの“西荻らしい”と云われる店が或る。「西荻らしいとは何か?」と問うと「温かそうでつめたいまち」そう答えが返ってきた。人間、文化芸術を縦横に織込んだ「たみ」は一体どういう場所だったのだろう。
「こけし屋はリベラルだけど、うちは左の方が多かった。みな神経質だけれど、優しい。人を傷つけたりしないけれど信念を持っている。広い街で寂しかったから」お酒の飲めない者が脚をむけても受け入れて、良心的な値段だったのはそのようなことだったのだろう。「博識ですね」とむけると「みなお客様が教えてくれた」そう返された。
 北朝鮮新幕生まれ。敗戦の年、ヤスエさんは一七歳で38度線を歩いた。祖父、金子さんが家族とは別の女性を連れて大陸に渡った。どんな汽車も泊まる駅で旅館を開き、家族を故郷から呼び寄せた。朝鮮の人を使用して生活の苦労のない少女時代を過ごしたという。女学校では教室の半分は朝鮮の人で当時は日本名を使用していた。勤労奉仕で松根油を取るための根を掘ったが、暫くして身体を壊し、慰問袋を縫うようになる。
 玉音放送を聞いた時、音が大小して判らず、兵士も「がんばろうということだ」と鼓舞した。一二歳、としの離れた姉の民さんは、当時学校の先生をしていた。父はモダンボーイで玄関先に帽子を引っかけたり、ダンスを積極的に勧め、ホールで踊ったりした。お金が出来て、従兄弟も呼び寄せ学校を出してやったりもした。
 大陸で育った強さが姉妹にはあった。
 引き揚げは過酷なものだった。お金で案内を頼んだが裏切られたり、「休み」と言われて寝てしまい、気付いたら独りぼっちであった。泣いて何時間過ごしたかわからない。親が探しに来てくれなかったら売られていたかもしれない、と云う。
 引き揚げ後、九州の久留米で洋裁の勉強を始めた。父の友人が「勉強するなら東京に行きなさい」と云うので一九四七年姉妹は東京へ出る。姉の民さんが皇后さまの帽子職人でもあった平田暁夫(二〇一四年八九歳にて死去)に師事する為、姉妹は西荻窪に住まう。そして修行中の生計を立てるために社交好きの民さんがガード下で「たみ」を始める。当時珍しい九州の本物の陶磁器を置く店として文化人が集まるようになった。しかし数年を経ずして芸術家、関頑亭氏と結婚。国立に引っ越してしまう。未だ二〇代で「たみ」を引き継ぐことになったお酒も飲めないヤスエさんを心配した常連客が“七人の守り人”となった。
 店は何回か改装をしており、東京オリンピックの年に現在の場所に移転した。ガード下の店を改修した早稲田の有名な建築家、飯田さんの設計によるもので今とは全く異なる山小屋風。入口も現在とは逆の右側で二階にはヤスエさんが住んでいた。七人の守り人は心配して、飯田さんにかわるがわる質問をする。最初は「いらっしゃいませ」も言えなかったヤスエさんが、やめようと思わなかったのは、人と話すことが苦でなかったこと、お客様の存在が大きかった。「お客様に育てられた」と云う。
 現在の店構えは同じく早稲田の建築家、安田与佐氏によるもの。リニューアルは設計だけでなく、暖簾から飾る作品に至るまで徹底して監修。照明は現在の場所に移ってから今日まで近藤昭作氏。のれんは古田重郎氏、マッチは大歳克衛氏のデザインであった。
 ヤスエさんにとってお酒は二の次で奥様をなくされた方、境遇の話がしたい人、自慢話がしたい人、話が大事だった。お酒を出したくない客が来ると「出すお酒がないんですよ」云う。相客が「出してやってよ」と云ってもしらんぷり。外でお客が「ばかやろー」と叫んだりした。

 そんなヤスエさんを支えたのはどんなご主人だったのだろう。及川さんはサラリーマンだったが義姉、及川道子さんは昭和一三年、二六歳で早折した著名な女優であった。家風がとても優しかったと云う。

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 ヤスエさんはいま、帽子アトリエ「関民」で姉民さんのお弟子さん達、約十名の作品に囲まれて店番をしている。帽子作家として有名になった民さんのお店は、国立駅から斜め右手にまっすぐ進む道を左に折れると、その趣或る佇まいが目に飛び込んでくる。

「私だけの帽子」を探しにおとずれてみてはどうだろう。

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参考文献
更谷いづみ著

『帽子作家 関民 Tami’s Spirit ‐こころが動きだすヒント‐』Izumaqui 2011年

Atelier Seki / アトリエ関(旧:関民帽子アトリエ)
ホームページ http://atelierseki.jimdo.com/
東京都国立市中2−2−1
042-574-1771
営業日:月、水、金曜日
定休日:不定休

営業日&営業時間は毎月異なります。お問合せください。

文: 窪田幸子 写真 :澤田末吉

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初代精神を今も育む 三仁堂薬局

片桐秀子さん
 西荻窪駅から五日市街道へ向かい、銀座通りを進むと右側に大きな店構えの三仁堂薬局があります。現在は三代目の片桐秀子さんが中心になって店の切り盛りをしていますが、秀子さんの母、禮子さんも店に出て、元気に顧客の対応に勤しんでいます。伺った日は三の市とかで、足裏での重心測定をしながら、お馴染みさんの健康を気遣う姿が見られました。

 薬を買いに来る人、測定をしに来る人で、店内はまるで病院近くの調剤薬局のような盛況ぶりです。店内の雰囲気も独特。歌を口ずさみながら歩く人、片桐さん親子と世間話をする人、薬の説明を受ける人と様々ですが、みんな楽しそうです。

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 秀子さんの祖父、明治33年生まれの吉太郎さんが昭和5年、現在の場所に薬局「三仁堂」を開店しました。三仁とは、まずはお客さん、次に従業員、そして家族、この三者が丸くおさまって始めて商売は成り立つとの思いが込められています。

 奥の壁には昭和12年に撮影した店の写真が飾ってあります。勿論、白黒で看板文字は今とは逆の右から左。近所の高木写真館さんが撮ったものと思われますが、変色もせず見事に残っているところをみると、相当な腕前の写真師が「三仁堂さんのためなら」と力を込めて仕上げた様子が伺えます。初代、吉太郎さんの人となりが浮かぶ写真です。間口は現在より広く、店前の街頭もたいそう立派で、昭和初期の西荻窪銀座通りを髣髴とさせます。

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 それから数年して、時代に暗雲が立ち込め始めたころ、西荻窪界隈には軍人さんの家が沢山あったので、吉太郎さんは一軒一軒注文を取って回り、商いを続ける一方、西荻窪衛生班の無料奉仕をして地域に貢献していました。三仁堂の精神が、ここにも息づいています。

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 二代目朝良さんの妻、禮子さんは今年、八十歳を迎えましたが、数年前からジムに通い、山歩きをして身体を鍛えています。溌剌と顔色もよく、自ら薬に頼らない高齢者の健康づくりの実践をしています。家事を一手に引き受け、お店にも顔を出して秀子さんの手伝いをするほどお元気です。

 今でも馴染客と会話を交わし、元気な顔を見るのが生き甲斐になっているようで、今は亡き常連客がローソクを「お灯明」「「御明し」と言って毎月買いに来られた話などを懐かしそうに話していらっしゃいました。

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 三代目の秀子さんは、三仁堂の精神を大切にしながらも、新しい経営感覚を取り入れ、ホームページを通じての健康情報の発信をしています。「うちは調剤薬局の資格を持ちながら、ドラッグストアにないきめの細かさでお客様に接していきたい」と話されました。

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 人間の自然治癒力とか、自然なモノの持つ力とか、そういうことをもっと大切にすべきだと思います。骨粗鬆症、貧血、便秘などは食生活を見つめ直すことで、かなり改善するはずです。風邪をひいても漢方薬で治るくらいの体力を維持できるような「身体づくり」をすることが大事。そのため自然の恵みに育まれた健全な食事が大切です。もう一度生活を見直し、親の務めや自己管理の向上についても真剣に取り組んで欲しいと願っています。それを実現するためには、顧客との対話を大切にして、必要な情報を提供できる店にならなければ、と日々努めているのです」と秀子さんは話していました。

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 店内は、漢方あり、化粧品ありで特別に変わった薬局ではありませんが、違いがあるとすれば、薬を売れば薬局の仕事は終わりとは考えていないということでした。人と人とのつながりを大切にしながら、顧客の気持ちになって商いをしているのがよく解りました。

三仁堂
ホームページ http://www.sanjindo.jp/
東京都杉並区西荻南2−21−10
03−3333−1320
9:00-19:30

定休日 日、祝日、年末年始

文:澤田末吉 写真:富澤信浩

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人情パン職人 夫婦のれん

 西荻窪駅北西、地蔵坂に向かう商店街を通り抜けると間口一間ほどの昭和を彷彿とさせるパン屋「しみずや」がある。主の名は金原勇三郎さん、79歳。
 甲州街道を新宿から下ると直ぐに、かつて巨大なガスタンクがあった。街道の向こう側には元オリンピック選手村で知られる代々木公園、近くには淀橋浄水場や屋形船が往来する十二社の美しい池があった。豊かな自然に恵まれながらも、新時代の息吹が感じられる環境だった。ここで勇三郎さんは生まれ、少年期を過ごした。
 昭和30年、18歳になった勇三郎さんは阿佐ヶ谷のパン工房に入社した。その頃、日本人は戦後の混乱から立直ろうと懸命になっていたが、一般的なサラリーマンでも生活するのがやっとで贅沢する余裕はなかった。
 若者たちは、世界に羽ばたく大手企業をめざして就職活動を展開していた。そんな風潮に逆らうかのように、勇三郎さんはパン職人の道を選んだ。理由は明快、「パン作りがしたい」からであった。

 入社して18年の歳月が流れた。36歳になった勇三郎さんは運命の人、幸子さんと出会い、結婚を決意する。真面目に働いた甲斐もあり、パン販売店を任されるほどになっていたが、店員が貰う給料では到底結婚して妻を養えるものではなかった。

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 独立して幸子さんと力を合わせて店を開店しようと、既に西荻窪にあったパン店の権利を取得して創業したのが「しみずや」の始まりである。称号は、地元に馴染みある前店名「しみずや」を継承することにした。
 幸子さんは、やっかいな仕事を一手に引き受け、勇三郎さんがパン作りに専念できる環境づくりに精を出した。お陰で店は繁盛した。
 潔癖症の幸子さんは、保健所職員もびっくりするほど徹底した清掃をおこなうので、店内には塵ひとつなかった。そんな清潔感が顧客から大きな信頼を受けていた。
 普段は寡黙な幸子さんだが、子育ての方針で夫婦喧嘩すると一度だけではあったが、卵を勇三郎さんに投げつける気の強い一面もあった。しかし夫婦の結束は固く、こんな些細な衝突で揺らぐものではなかった。
人情「シベリア」作り
 勇三郎さんは、顧客に頼まれると断れない性格だ。ある日、上品な婦人が店を訪れ、病に伏す母親が「もう一度シベリアが食べたいと言っているので、作ってもらえないだろうか」と懇願された。以前作ったことがあったので人助けにもなるからと思い、直ぐに了解した。
「シベリア」とは、カステラで羊羹を挟んだ菓子のことである。羊羹をシベリアの凍土に例え、カステラを氷原に見立てたとか、シベリア出兵にちなんで作られ、羊羹をシベリア鉄道の線路に見立てたなど諸説いろいろだ。
 冷蔵庫のない時代、ひんやりとした食感と涼しげな名称が好まれ、昭和初期には子供が食べたい菓子のナンバーワンにもなった。発祥が不明なのも幻の菓子としての効果を高めたのかも知れない。
「シベリア」はカステラや小豆と寒天を煮て羊羹を自前で作らねばならないので、なかなか手間が掛かる。その上、型や材料の都合で一度に40個分も作らねばならない。売れ残るリスクに対する覚悟も必要だ。
 間もなくして「シベリア」が出来上がったので、早速、依頼した婦人に手渡し、母親に食べてもらった。病状悪化でほとんどの食べ物は喉を通らなかったが、「シベリア」だけは「おいしい、おいしい」と喜んで食べてくれた。商売にはならなかったが、勇三郎さんには充実感があった。

 それから数年後、アニメ映画作品「風立ちぬ」の一場面に「シベリア」が登場して話題になった。「シベリア」を売る店がなかったから、「シベリアのあるパン屋さん」として知られるようになった。

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 このエピソードを語る勇三郎さんは、実に幸せな表情をしている。顧客に喜ばれるパン作り、これが勇三郎さんの原点なのだろう。
 妻の死
 平成19年5月7日、最愛の妻、幸子さんが69歳で他界した。直後は店を閉めようかと思ったが、息子さんから「おやじ、何もしないで、これからどうするつもりだ」と気づかわれ、「私も手伝うから店を続けよう」とお嬢さんにも励まされた。
 葬儀を終えてひっそり静まりかえった店に一人戻ると、常連客の寄せ書きが扉に張られていた。「また来るからね、美味しいパン作ってね」、「きっと、おばさんも天国でおじさんがパン作るの待ってるよ」と記されていた。

「これには泣けたなあ」と勇三郎さんは回想する。みんなに背中を押されて勇三郎さんの第二のパン作り人生が再出発した。店の棚には幸子さんの遺影が飾られ、勇三郎さんを暖かく見守っている。

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 ショーケースには、朝から揚げクリームパン、メロンパンなどが並び、午後になると完売状態になる。パンを買い求めに訪れる若者からお年寄りまで、みんな勇三郎さんと親しげな会話を交わして帰っていく。

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 勇三郎さんに一番大切にしているのは何かと質問すると、「正直」という言葉が返ってきた。「しみずや」のパンも正直そのもの、等身大の形と味、そして、平凡にして非凡なパン、人情と信頼がうまさを増幅してくれるのがもっと嬉しい。

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しみずや
東京都杉並区西荻北4-4-5
電話03-3390-6781
12:30-19:30
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文:奥村森 写真:澤田末吉

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