『松庵の本木』がブランド

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 竹は私たちの日常生活にとって大変身近な存在だった。縄文時代の遺跡から竹製品が出土しているそうで、それほどの昔から私たち日本人は竹とともに暮らしてきた。様々なザル、カゴにはじまり竹竿、扇子、団扇、物差し、竹トンボ、竹馬などなど、身の回りにあった竹製品を次々に思い出すことができる。ところがいつの頃からか、身近にあった竹製品の姿が見えなくなってきた。竹トンボや竹馬のように子供の遊びの対象にすらならなくなったものや、台所にあったザル、衣装カゴのように日常の生活の中で使われなくなったものも多く、竹製品は、プラスティック製品の登場で消えていった。

 本木文平さんは、竹職人の父利喜蔵さんと二代にわたって、杉並区松庵で竹にかかわる仕事をしてきた。今回は 本木さんに、竹をめぐるいろいろな話をお聞きしようと思う。
竹は孟宗竹と真竹
本木さんはいくつのときから竹にかかわる仕事を始められたのですか
「学校出てすぐ、父親の手伝いということからはじめたから、18歳のときになるかな。昭和8年生まれだから、昭和26年ごろということになるね。主に、私は植木屋さんを相手に竹材を仕入れて売っていて、父が竹カゴの職人だった。その頃はね、松庵小学校はまだなくてその辺は、岸野さん、栗原さん、窪田さんの土地で、孟宗竹の藪だった。そのもう少し先に行ったところの栗原さんの土地には真竹が生えていた。その竹を譲ってもらってカゴを作っていた。細工に使うのはこの二種類。孟宗竹は太くて荒く割けるので、農家で使うかごに向いているの。豚カゴといって豚を入れられる大きなかごができた。高さが1m2,30、長さが2m、幅がこのくらいかな」、と広げた手の幅は1mぐらいだった。そのとき思い出したのが、江戸時代の罪人を入れて運ぶ唐丸カゴだけど、そんなものはもちろん作っていない。豚カゴより大きいのは、小学校の運動会で玉転がしに使う丸いカゴだそうだ。「真竹は細いけど粘りがあって細かい仕事に向いていた。小さいものは真竹でないとね、作れない。色の良さ、つやがあって、美しさは真竹だね。それに、垣根はいろいろあるけれど、あれは全部真竹。うちはザルも作ったけれど、カゴが専門、それでご飯を食べていた。」
竹は切り時が大事
 国内で生育する竹は600種ほどになるそうだが、本木さんは「あと竹では関西の黒竹と千葉の女竹。女竹は加工すると清水竹と名前が変わっちゃうの。女竹は密生しているんだけれども、今あんまり使い道ないでしょう」、と二つ、挙げてくれた。
 竹は成長が早く、一日で、孟宗竹で119cm、真竹で121cm伸びたという記録がある(林野庁ホームページ、「竹のはなし」)。竹は伐採する時期が大事だと言う本木さんの話を聞いてみる。「切るのは一年で一遍だけ、虫が入るからね。切り時を切(セツ)というけれども、切がいいとか悪いとか言ってね、水が上がった後がいいの。竹が眠ると言ってね、冬眠に入った頃、そうねー、11月ぐらいだね。この時期がすごく大事で、時期さえ間違えなければ虫が入らない。春、藪に入って竹に生まれた年を書いておいて、切り時が来れば自分で切っちゃう。竹は一年で伸びちゃって、後は固まるだけだから、一番いいときは三年目だね。一年目のは新子というんだけれど、柔らかくて折れやすいから、カゴの縁をまくのに使うぐらい。四年、五年も経つと、つやが無くなってきて使えない。竹は面白いもんで、日当たりのよいところに生えているのは、こわくなってよくない。硬くなって割れてきちゃう」。
竹の虫を食べる
 いま昆虫食の話題を、雑誌などで見かけるが、本木さんはこの竹の虫を食べたことがあるそうだ。「竹に入る虫というのは、鉄砲虫と言ってたけど、食べるとうまいんだよね。虫に詳しくないけど、大きくなったらカミキリムシになるんじゃないかな」。ネットで「竹 害虫」と入れて、調べてみると、竹の害虫としてタケトラカミキリとベニカミキリが出てきた。白いイモムシのような幼虫からさなぎを経て、この成虫になると説明されていた。写真を見る限り、食べるのは幼虫の方だろう。味は確認していないが、ミャンマー料理では竹虫が調理されるようで、レストランのメニューの写真によく似ている。関心のある方はレストランで味わってみてはいかが。パンダは竹を食べますねと聞くと、「葉っぱだけじゃなくて固いところも食べるんだよね。何の栄養があるのかね。人間は竹の子を食べるけど、うまいのは孟宗竹ので、真竹のは苦いんだよね。だから食べない」。真竹は苦竹とも書かれ、ニガタケともよばれる。話を本題に戻そう。
そうやって切った後、カゴになるまでの手順はどうなるのですか。竹は木材のように寝かしておくのですか。
「竹はたくさんは要らなくて必要な分だけ切ってくればいい。採り過ぎても無駄になるだけだ。この近所の竹藪で間に合っちゃう。一人の職人が使う量は知れてるからね。日陰に置いておくけども、あんまり時間がたっちゃっても使い物にならない。そこが木材と違うところだね。一年も二年も置いとくなんてことはしない。そこでカゴを作るとなると、一本の竹を割って、さらに四枚に裂く。これを竹ヒゴというけど、一本の竹から竹ヒゴが何十枚ととれるからね。何本も要らない。竹ヒゴは、一枚目から四枚目までそれぞれ特徴があって、一枚目の皮が一番良くて、だんだん固くなってくる。そして表、裏をちゃんと保っておかないといけない。表裏を逆にするとだめなの。それを編み込んでいってカゴにするわけだ。ここが職人の腕の見せ所だね。」
できたカゴを買うのは地元松庵の農家ですか?
「そうね、松庵の農家が売り先で一般の家庭は、昔は使ったでしょうけど、そんなに使わないから。今カゴ製品はビニールになってしまったから、カゴ屋はもういないでしょ。農家もほとんどなくなってしまったから、カゴを買う人もいなくなった。カゴはね、雨ざらしにしたりしないで大事に使うと、何十年も持つの。そうすると売れる数も減って商売としてはうまくないけど、粗末に扱われるのを見るのはやだね」、と職人としての父の気持ちを代弁するかのようだった。
竹職人の利喜蔵さん
少しお父さんのことをお聞きしたいのですが…。
「父は、大正の終わりころ小金井(栃木県)から松庵に来て、岸野さんに家を借りて職人としてスタートした。明治37(1904)年の生まれだから、21か2のときになるね。日が出る前から暗くなるまで、そして暗くなっても働いていた。一日三~四時間しか寝てなかったんじゃないかな。そうしないと食べていけなかった。その頃、職人の手間賃が日に一円五〇銭ぐらいだったんじゃないかな」。当時(大正15年)の喫茶店のコーヒーが一杯一〇銭、ビールが一本四二銭だった(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。「職人の稼ぎは少なかった。今にして思えばよく食べて行けたね。オヤジは大変だったろうと思うよ。だから子供を職人にしようとはしなかった。学問を身に付けろという考えで、学校に行かせてもらった。それで、私は竹を四枚にわることもできない。簡単そうに見えるだろうけど、素人には手を出せない。私はもっぱら竹材の仕入れと販売を受け持って、オヤジの手伝いをしたわけね」。
 本木さんは、お父さんの修業時代の話を思い出して、職人になる苦労は並大抵のことではないと次のように話してくれた。「父は小学校を出ると修業に出たわけ。はじめは子守と雑巾がけだ。なかなか竹材や刃物に触らしてくれない。危ないしね。それからだんだんと簡単なことからやらせてくれる。親方が、よし、独立しろというまでが、修行だ。つらい仕事に耐えて一人前で、途中でやめていく人が多かった。奉公に十年はいかないと職人になれない。そんなこんなで一人前になっても、大変でしょ。仕事は、手間のカタマリみたいなもんだから、そんなに儲かるなんてことはないし、土をこねて茶碗作るにしても、名人という評判をとるまではもっと大変だ。大概の職人は、歯食いしばって頑張って、身体、使って来たから、歳とると歯がないの。自分が言うのも変だけど、立派な父親だったね。飲むのが好きだった。55のとき倒れて、働くのをやめた」。
本木さんのお店は何という屋号でした?

「そんなのないの。店の名前はないし、看板もないの。『お前の作るかごはいいな』と言われるのが宣伝であり屋号なの。『松庵の本木』で通っていた。信用が大事で、すぐ壊れるような、いい加減なものを作ったら生活ができなくなっちゃうから、命懸けだ。ここで駄目になったからって、知らないところに行ったって食べていけないんだから、人との付き合いは大事だ。父は人から受けた恩は決して忘れなかった。竹を譲ってもらったりして、松庵の地主さんに大事にされたおかげで、食べてこれたので、地主さんには頭が上がんない」。恩の大切さを強調する本木さんは、「今の時代、恩や感謝という言葉が無くなっちゃった」、と悲しそうな表情だった。

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お父さんの時代、竹屋さんというのはどのくらいあったのですか?

「大体、村ごとにカゴ屋はあったね。久我山、高井戸、松庵、関前とかに一軒づつあった。ある程度離れてないと、商売はうまくいかないよね。数えたことはないけど、農家が百軒以上ないとやっていけないんじゃないかな。さっきも言ったようにカゴは大事に使えばもつから、そんなに売れるものじゃないしね。沢山作って、今度は市場に持って行っても買いたたかれちゃう。安くても仕方ないから売ってしまうんだよね。うちがこの辺りで最後のカゴ屋だった。この商売はね、ビニール製品がはびこってきたときにもう、駄目なんです、負けちゃったんです。それに跡継ぎもいないしね。見込みがないって、そう思っていたから、仲間が止めていくのを見ても寂しくなかった。私は仕入れ販売をしていたから何とかやってこれたけど、とうとう力尽きて竹の仕事を止めよう、と思ったのが平成20年頃だった」。
本木さんはお父さんの手伝いをするかたわら、文房具店を始めたのですか?
「よく知ってますね」、と尋ねられたので、以前、『西荻春秋』に金田一先生に登場していただいた時、本木さんの文房具屋さんによく行った、という話を聞いたものですから、と答えると、嬉しそうに話を続けてくれた。「あ、そうなんですか。松庵小学校ができたときに始めたんですよ。私が高校出てすぐに始めたの。今の文房具屋と違って何でも売りました。よろず屋だね。運動足袋なんかも扱ったけど、運動会のときの一回限りのもんでしょう。ノート、鉛筆はもちろんだけども大きな紙とかね、いろいろあった」。松庵小学校は、開校は昭和27年4月だが、他の小学校に間借りしていて、松庵の現在地に校舎ができて移ったのは同年9月のことになる(同小学校同窓会ホームページ)。
話終わって、少し竹のうんちく
 私たちと長い付き合いの竹は、はじめに述べたようにいろんな形で利用されてきた。食用にされ、道具を作る材料にされ、そして竹材としてだけでなく皮も使われる。子供のころ、おやつ代わりに梅干しを皮で包んで、しゃぶっていた思い出を持つ方も多くいるのではないだろうか。ちまきは笹の葉で包んでいる。肉屋さんは肉を竹の皮で包んで売っていた。「お弁当のおにぎりもそうだった。竹には殺菌作用があるからね、食品関係にもいろいろと使われたね」、と本木さんは懐かしそうに話す。
 空気も殺菌されるのか、竹林に入ると、何か清々しさを感じることがある。気持ちが洗われるような気分である。スッと一風吹いてくると、思わず姿勢を正したくなるような、まさに「地上にするどく竹が生え」た、静謐な感じがする。大げさに言えば神社のような聖なる場所に来たと思わされるのだが、そんな経験はないだろうか。誰もが知っている『竹取物語』では、竹の中からかぐや姫が生まれるが、彼女はこの世の人ではない。月に帰るのだから月の人、つまり天にいる存在、聖人が竹林で生まれる。竹林はそういう場所だった。「竹林の七賢」は世俗に背を向けて、竹林に入って清談にふけった、という故事もある。そんなことをあれこれ想うと、松庵の竹藪が消えてしまったのは、恩や感謝の言葉がなくなってしまったという本木さんと同様、悲しく寂しい気持ちにさせられた。桜並木の保存を言うなら誰か竹藪の保存に乗り出してくれないかな、と思う。地震のときにも役に立つのだから。小学校の南側には梅の木がたくさん集まっていて、季節にはきれいに咲きそろう。近くに竹藪を復活させてくれれば、松庵の竹藪に梅となって縁起もいいのだけど…。
 ところで竹はイネ科の植物だが、木なのか草なのか、どちらだろうか。専門家の間でも意見が分かれるそうである。異質なものをつないだという意味で、「木に竹を継いだような」という表現を使うことからすると、竹は木の仲間でないような気もする。『古今和歌集』に次の歌がある。「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの はしにわが身はなりぬべらなり」(雑歌下)。桓武天皇の女、高津内親王の歌と注が付けられているが、平安時代にすでにこのように思われていたのが面白い。これに対して現代、世界的に有名な竹博士である上田弘一郎京都大学名誉教授は次のように力説されていて、さらに面白いので紹介すると、「竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だ!」そうです。
 後日、養鶏家である窪田幸子さんの指摘によると、唐丸カゴの唐丸とは鶏の一品種だそうで、そもそも、その鶏を入れるかごを唐丸カゴと呼んだそうです。罪人を運ぶカゴは、形がそれに似ているのでその名がついたということでした。

 鶏と言えば伊藤若冲の名が浮かぶ。『若冲の描いた生き物たち』(小林忠ほか、学研プレス)のなかで、「紫陽花双鶏図」の解説に絶滅した大唐丸、現存する唐丸の話題が紹介されている。「…若冲の絵に描かれているもののなかには、大唐丸とおぼしきものが多く、絵画的価値だけでなく、家禽史の資料としても貴重なものといえる」とある。

文:鈴木英明 写真:澤田末吉

取材日:2018年5月28日

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地域に在るお寺として 慈雲山荻寺光明院・副住職田代弘尚さん

“荻寺”の発展
 JR・東京メトロ丸ノ内線荻窪駅の西口を出て、商店街に沿って西へ進んだところに、「荻窪最古」の言い伝えをもつ古刹がある。それが慈雲山荻寺光明院である。
 光明院のかまえは、JRに乗っていても目に入る。中央線の線路にそって歩く人たちは、知ってか知らず、光明院の境内を東西に横切る「荻の小径」をたどっていく。光明院は地域に開かれた寺院だ。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N001-1024x662.png です光明院本堂

 和銅元年(708)、一人の行者が、行基菩薩が作ったという千手観音像を背負ってこの場所を通りかかった。すると不思議なことに、突然背負った仏像が重くなり、動かなくなってしまった。「きっとこの尊像は、この地をお気に入りになり、離れたくないのだろう」そう考えた行者は、付近に生えていた“荻”をあつめて、小さな草堂を作った。これが光明院の始まりであると、お寺の縁起では伝えている。これが“荻窪”地名の発祥であるともされている。

 光明院の概要については、19世紀初頭に編纂された『新編武蔵国風土記稿』には以下のようにある。
 ——— 青梅街道の内にあり。慈雲院と号す。新義真言宗にて、中野村宝仙寺の末。客殿五間半に六間、東向なり。本尊千手観音の塑像を安置す。長三尺八寸、開山開基詳ならず。されど当寺世代の僧権僧都弁教は、寛文六年三月に寂せりと云えば、それより前の起立なること知べし。——–(読みやすいように旧字は新字に、カナはひらがなに直した)

 今の時代、地域のなかでお寺はどのように地域と接しているのだろうか。ぜひともお寺の人にこのことを取材したい。それを大きな動機として、光明院に取材を依頼したところ、快く応じてくださった。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N005-1024x578.png です光明院の副住職 田代弘尚さん

 今回、取材させていただいたのは、光明院の副住職田代弘尚さん。現在の光明院のご住職、田代弘興氏は、真言宗豊山派の管長(一宗一派を代表する最高責任者のこと)を務めていて、真言宗豊山派の総本山長谷寺(奈良県桜井市)にいらっしゃり、光明院は副住職さんが今は守っている。
 お寺の雰囲気に少し緊張してうかがう私たちに対し、とても気さくに対応してくださった。午前中に法事があったというお忙しいなかでありながら、「写真を撮るのなら着替えてきますよ」とわざわざ法衣に着替えてくださった。おかげでこちらも次第に緊張がほぐれていった。
 弘尚さんは荻窪で生まれた。お寺の行のため、関西に6年いたほかは、荻窪で暮らしている。小学校は光明院と同じ真言宗豊山派のお寺である宝仙寺(中野区)が設置母体である宝仙学園小学校に、東京メトロ丸の内線を使って通っていたという。
 光明院は宝仙寺の末寺である。明治期までの光明院は、「田舎寺」であったという。そのころの光明院は“無住”だったという。

 そこで中野の宝仙寺の貫主が住職を兼ねていた。実際に、本堂が明治21年(1888)に甲武鉄道の開通時に移転した記念として建てられた碑にも、「当山(光明院:執筆者注)兼住職宝仙寺第四十七世」という文字が刻まれている。弘尚さんの曾祖父は、もともと福島の出身で、中野の宝仙寺で修業をしていたのだという。その時にたまたま見いだされ、光明院の住職になった。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-1024x585.png です甲武鉄道開通時に本堂が移転したことを記念する碑

「かつてこの周りにはなにもなかったのかなと思います。うちの場合は、昔はお金もなくて檀家さんも少なかったような小寺で、そんな時にたまたま線路を引くという話があって、それが境内地を通るので境内地を割譲することにもなりました。また住職がいなかったときに兼務というかたちで宝仙寺さんが助けてくださったんです。これが今になってみれば駅からも近いという立地が幸いすることになりました。お檀家さんがだんだん増えてきたのも、いろいろな要素があって今に至っているのかなと思います」

 荻窪という地域の発展とともに、光明院は現在の発展を迎える。駅から近いという理由でお参りする人も多いという。檀家ではなくとも、駅から近いという理由で斎場を使う人も多い。
時代のうつりかわりとお寺の役割
 かつて光明院は「観音保育園」という保育園を経営していた。その保育園があったころには、地域の盆踊りも行われていたという。昭和43年(1968)現在大斎場となっている観音ホールが建立され、ここでかつて保育園の子どもたちもお遊戯会などを行っていたという。さらに、ご住職は保育園の園長をやりながら、人形劇団をやっていて、観音ホールにあったステージで、人形劇も上演していたという。
 しかし、だんだんと地域に子どもが少なくなってきたり、人形劇の時代でもなくなってきたりという要因が重なり、観音ホールは1990年代に改装、これからの時代は自宅でお通夜や葬儀を行う人が減り、お寺でお通夜や葬儀を行う時代になるだろうということで、現在のような斎場になったのだという。

 時代が変わっていくともに、地域のなかでのお寺の役割も変わってきた。お寺が地域の祭りなど、コミュニティの中心になっていた時代が終わり、近年「葬式仏教」と揶揄されるように、「葬送の場所」としか広く認識されなくなってきた。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N004-1024x470.png です荻の小径

 お寺の役割変化をうけ、光明院の認識もかわってきたという。「荻の小径」がそうだ。線路沿いに整備された通路は、光明院の境内にある。この小径には、荻窪の歴史の象徴でもある荻や、季節の草木があり、往来する人々の目を楽しませている。また小径は脇の通用門から24時間通行が可能だ。これは光明院が地域に開かれた寺院として存在するためのひとつの工夫だという。

「出会い観音」と呼ばれているご本尊も、人を引き付ける。かつて盆踊りが行われていたとき、この境内に参拝した人たちが結ばれることが多かったという。(ご本尊は普段は非公開だが、毎年3回御開帳される)
 言い伝えを活かした“戦略”も、お寺が地域に開かれる契機になる。
 また災害に際して、お寺がもつ役割は大きい。光明院では、非常食の備蓄もしているという。なぜならば、地震などの自然災害が起こると、人は自然とお寺にあつまるが、救援物資が届くのは、ほとんどが公営の公共機関だからだ。いざという時に頼れる場所であるための工夫・努力・知恵だ。
「この周辺は割と災害対策はしっかりしていて、公的機関には防災のシステムはほぼ完備されているんですよね。それでもお寺としても防災の備えをしておくべきなのかな、と思うんですよ」
 防災の意識、それが今の時代に課せられた「お寺の努め」だという。
 年中行事として、大みそかには除夜の鐘を先着順(108回)でつくことが出来る。ご奉納は1000円。振る舞い酒も出る。
 近年は除夜の鐘をうつことが出来る寺院も減ってきている。家族で運営している寺院も苦しいところがあるという。
「除夜の鐘という行事で、鐘をついていただくこともコミュニティの一環です。これも未来永劫、続けていかないといけないなと考えています」
 移り変わっていく時代に順応していくことが、寺院としても求められているのだという。
聖と俗
「お寺には「聖」と「俗」の部分があるんですよ。このお寺を残していくような「俗っぽい」ことも続けていかなければ、お寺も生き残っていけないと思っています」
 “ペット”へのまなざしも、近年かわってきているのではないだろうか。ペットも家族の一員として、近年ではペットのお墓も売り出している寺院や共同墓地がたくさんある。
「真言宗の教えではペットは“畜生”なので、これを一緒に人間と葬るのは本来ダメなんですよ。ですので、今は光明院ではペット供養はやっていません。でも、これからはそう言ってもいられなくなるのかもしれない。例えば、災害時に小学校などの公共機関にはペットを連れて逃げられません。その場合に、お寺を開放してあげるようなことも必要になってくるかもしれない。考え方はいろいろあるのですが、ひとつの案として、例えば犬塚のようなものを作って、教義に反しないように人間とは別に葬ることも、これからの時代には求められてくるのかもしれませんね」
 社会へ対する“俗”なアプローチを行いつつも、“聖”の部分も守っていくことがお寺という場所だ。
「常々我々のなかで言われているのは、真言宗の宗派として、我々が社会に迎合してはいけない、仏教観は変えてはいけない。ただし、社会がどう動いているかはだけは、よく見ていかなければならない。ということです。お寺だからといってなにも変わらずに社会から取り残されることもいけないことだし、だからといって教えや教義をねじまげてまで迎合するのもだめ、ということです」
 真言宗豊山派では、そのバランスをとることを教えているという。
 そもそも真言宗は、大きなものだけで18の宗派に分かれている。もちろん、おおもとは平安時代初期に空海がもたらした“密教”である。
 真言宗では、経典を議論していく。当然、僧侶によって読み解き方がかわっているわけであり、その大きな流れとして「分派」することになる。
 光明院が属する真言宗豊山派は、根来寺を中核として新義真言宗の一派で、16世紀の末頃、大和長谷寺(奈良県桜井市。豊山派総本山)を再興した専誉が起こした宗派とされる。
 江戸時代に宗派を広げていくなかで画期となったのが、五代将軍徳川綱吉の母桂昌院が、護国寺(東京都文京区。豊山派大本山)を開創したことによる。護国寺は徳川将軍家の祈祷寺として存在し、豊山派は護国寺を中心に関東へ末寺を広げていった。
 歴史のなかで培われてきた教義を守ることも、必要であることに違いない。
人々の仏教との接し方
 最近の人たちの仏教観は変化してきているのだろうか。
「仏教観そのものは変わっていないんですが、仏教との「付き合い方」が変わってきたんじゃないでしょうか」
 例えば“お布施”。「お布施の値段」は決まった料金ではない。だが「値段を決めておいてほしい」というのが最近の傾向だという。
 おそらく「聞くのが面倒くさい」のではないか。と弘尚さんは考える。
 昔はお店の店員さんと話をして、値段交渉をすることがどこのまちでもあった。値札はあってないようなものだったのだ。しかし、今は店員と話して値段を決めるというやりとりは、ほとんどなくなってしまった。値札通りに支払うし、値段交渉をすることはほぼ無い(近年は家電量販店などではそれが出来ることが「ウリ」になっている傾向もある)
 コミュニケーションの方法が変わったことにより、人と接するのがわずらわしいのではないか。だから事前にお布施の料金も決めておいてほしいのだろうと推測する。
 そもそもお布施の値段が決まっていないのは、人によって値段の重みが違うからだという。
「例えば卑近な例ですけれど、今日食べるものにも困っている人がもってきたなけなしの一万円と、大金持ちが“これくらいでいい?”と持ってきた一万円、同じ一万円でも重みが違うわけですよね」
 かつてお寺は地域のコミュニティの中心にあって、檀家さんなど地域の人たちの生活状態も把握していた。
「あのおうちは今日食べるものも苦労しているのに、こんなに一生懸命お布施を持ってきてくれたんだから、葬式も供養も心配しないでいいよ。と言ってあげるのがお寺の付き合いだったんです」
 コミュニケーションが取れている時代ではこれが出来ていたのではないかという。
「人との接し方が昔とかわってきたがために、お寺がいまの人たちにとって面倒くさいものになっているんですよね。その垣根をはらうのは料金を決めることが簡単なのかもしれないけれど、あえてそれでもお寺から声をかけることが大事な時代で、若い人たちの“仏教観”もそれによって、変わっていくのではないかなと思います。わずらわしく思われたり、余計なお世話だと思われたりするだろうことは重々承知の上ですけれど、それを聞くのが住職の仕事なのかなと」
 コミュニケーション不足によって、ため込んで悩んでしまう人も多いだろう。話を聞いてくれる場所があるのならば、状況は変わってくる。
 時代の変化のなかで、お寺と地域との関係も、大きく変わっていった。お寺の教義やお寺の存在そのものが変わったわけではない。社会との関わりももちろんのことだが、行政との関わりも現代の寺院をとりまく大きな問題の一つである。
「今の時代にとって宗教の役割が何なのかも、考えていかなければならないですよね」
今後の光明院
 時代はこれからも変わっていく。その時にどのように伝統を引き継ぎながら、社会とかかわっていくのだろう。
「やっぱり今は難しい時代なので、ともかくもお寺を守っていくことが大事だと思っています。十年後、二十年後に檀家制度がどのように変化しているのかもわかりません。檀家を増やすための入口も変わっていくんじゃないかと思います」
 現代では、「お墓を持つ」ということが檀家への入り口となる。いわば「聖」なるものを契機として、必然的に檀家関係になることが多い。
「今でもそうですけど、なぜお寺に行くのか、例えば京都のお寺だったら名所が多いとか、現世利益を求める精神的なものだとか、そういう理由が多いですよね。でももしそれが、世の中に受容として、前提とされるようになったときは、光明院も変化しなければいけない。もちろん教義を捻じ曲げるわけではなく、それにのっとった形で、あらたな要素を提供していく必要があるでしょうね」
 お寺が地域社会のなかで持つ意味、それを常に考えていくことが必要だという。
「例えば、お話し方教室をやるとか、前やっていた人形劇団に近いような、文化的なプログラムを地域に発信していくことも重要ですね。昔は書道教室とか剣道教室とかも観音ホールでやっていたんです。将来的に、それをきっかけに人が集まってきて、お寺が発展していくことも出来るのかもしれません」
 今回お話しをうかがって、ここまでお寺が、変化していく地域社会のなかで存在していこうとしているのかということに、(たいへん失礼なことながら)意外に思うと共に大変感銘を受けた。気さくにお話ししていただいた弘尚さんのお人柄も、地域のために発展していこうとする光明院の性格を表しているのかもしれない。

 (重ねて失礼なことながら)旧態依然として存在しているかのように思える寺院社会にあっても、そこにお寺が存在していく限り、地域のハブとしての存在は、変化を遂げながらも、未来永劫続いていくのだと思う。

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文:駒見敬祐 写真:澤田末吉
取材日:2018年8月6日

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アプローチは「西荻窪(Nishiogikubo)+社会学(sociology)」

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「都市の食文化をテーマとした、ウェブベースの東京フードカルチャーを調査するプロジェクト」を標榜する「西荻町学(Nishiogiology)」というWebページ(www.nishiogiology.org)がある。そのリーダーが、上智大学国際教養学部教授のジェイムス・ファーラーさんだ。同じ町を基盤に活動する「西荻春秋」としては、西荻窪に対する思いやこだわりについて興味津々……。ということで、今回はジェイムスさんにお時間をいただいて、様々なお話を伺うことにした。
アメリカ南部から欧州、中国、そして日本へ
 私が生まれたのはアメリカのジョージア州の田舎町です。今でも人口は3000人くらいしかいません。独立戦争(1775-1776)の頃も同じくらいの人口だったから、200年以上経っても変わっていない(笑)。10歳のときにテネシー州に移って、そこで高校を卒業し、ノースカロライナ大学へ入りました。ですから、私の故郷はアメリカ南部。昔から今に至るまで、政治的にも社会的にも保守的な土地柄です。
 大学在学中に、ドイツのデュッセルドルフ大学に留学します。そこで「海外の生活はやっぱりいいなあ」という思いを強くしました。アメリカ南部の生活は、あまり自分に合っていなかった。保守的なところから逃げたかったのです。ヨーロッパは本当に居心地がよかった。
 そんな思いもあって、1987年に大学を卒業した後、2、3年かけてヒッチハイクでヨーロッパから台湾まで旅をします。ヨーロッパではいろいろな所で働きました。イギリスでは新聞記者もやりました。スペインでは、数週間ですがサーカスで働いたこともあります。毎日象に餌やりをしましたが、とても印象的な仕事でした。
 地中海を回ってエジプトまで行き、インドやバングラデシュにも行きました。その後、台湾に渡るのですが、インドで日本人と知り合ったことで、本当は日本に行きたいと思った。でも、当時はお金もなくて……。日本はバブルの頃で、物価も高いし、とても行けなかったんです。だから台湾。
 1年間、一所懸命に中国語を学びましたね。そのおかげで「東南アジアは面白い」と感じるようになり、社会学で有名だったシカゴ大学の大学院に進みました。1998年に博士過程を修了して、中国の上海に行きます。上海には3年間住んで、中国の若い人たちの恋愛や結婚に関する研究をしました。
 そしてアメリカに戻るとなったとき、ちょうど上智大学が社会学の研究者を募集しており、それがきっかけでようやく日本に来ることができたのです。「日本は素晴らしいところだ。行きたい」は思っていたけれど、そのとき日本語は全くできませんでした。
印象的だった東京の街

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 初めて東京に来たときに、友人が吉祥寺に連れて行ってくれたのですが、ハモニカ横丁がものすごく印象的でした。もうひとつ印象的だったのが、やはりその友人が連れて行ってくれた渋谷のガード下の飲み屋街です。
 上海も大好きな街ですが、東京は本当に面白い街だと思います。住み始めてもう20年にもなるのに、わかっていないところがものすごく多い。それは、たぶん東京が歴史ある古い街だから。古くからの東京の人は、自分を「東京人」ではなく「西荻人」とか「神田人」とか称して、その所々にアイデンティティを感じていますよね。生まれた土地、住んでいる土地にこだわりがある。
 東京はロンドンに通じるものがあると私は思います。ロンドンも古い街で、鉄道が発達する前の雰囲気も残っているし、鉄道が発展するにしたがって駅ができていく、18、19世紀の雰囲気も残っています。
 では、上海はといえば、シカゴと同じような感じでいわば20世紀の街です。移民の町ともいえる。面白いけれども深いとはいえません。自分にとって特別な土地だ、という意識はあまりない。ひとつの中心市街地があるだけという感じで、面白くはないですね。しかも上海は、例えば3年も空けて久々に訪れると、自分がどこにいるのか全くわからなくなる。そんな街です。
 しかし東京の場合は、西荻にしても、新しい店は増えていても街の姿はそこまで変わっていないところが多い。現地の人に聞くと、昔ながらの西荻の特徴はまだまだ残っていると言います。そこが違いますよね。
 私は日本に来て20年ですが、最初の10年間は、毎年3カ月くらいは上海に滞在していて、ずっと中国の研究をしていました。住んでいたのは中野新橋だったので、新宿にもよく行っていました。食事をしたり歌舞伎町などを見て回ったりして、魅力的な街だと思っていた。まだ若かったせいもあるかもしれないですね(笑)。
 そのうち、たまに阿佐ヶ谷に行くようになって、阿佐ヶ谷の商店街とか街並みとか、すごく好きになりました。でも今は、古いお店が閉まって、チェーン店などが入ってきて変わってしまいましたね。
 その後、上海に1年間行くことになり、日本に帰ってきてあらためて住むところを探したときに、本当は吉祥寺に住みたいと思った。でも、吉祥寺には手頃な物件がありませんでした。西荻の人に「どうして西荻に住んでいるのか」と聞くと、「吉祥寺には住めなかったから」という話がよく出ますが、そういう人は多いですね。
 西荻がどういう街か、もちろん私にはわからなかったけれど、松庵に住むことにしました。その当時は、商店街を歩いてもあまり賑やかではなかった。
 けれども、なぜ、西荻窪に暮らしている人が「西荻人」になるのか、興味が湧きました。私も西荻が好きになっていたし、日本に長く住むつもりになっていたので「日本の社会にもっと深く入りたい」と思うようになりました。そのためにも、「西荻町学」をやりたいと思い立ったわけです。プロジェクトを始めたのは2015年でした。
興味深い日本の「飲み屋文化」「食文化」
 私は海外経験を元にした視線で日本を見てしまうのですが、日本の飲み屋文化や食文化にはとても興味があります。上海の飲食店の研究も続けていますが、中国には個人経営のような小さなお店はない。オーナーとしゃべったり他のお客さんとしゃべったりするお店はないのです。でも、上海でもそういった文化に憧れている人はたくさんいます。しかし実際には自分ではやれない。
 その理由のひとつは、職人の存在です。職人つまりシェフが、自分で料理して自分で客に提供する。中国やアメリカには、そういった職人はほとんどいません。でも、お客さんはそういうお店で飲食することで、その職人の専門知識に接することができる。私はそれがすごく面白いと思うのです。
 私の上海の友人は日本の食文化が大好きで、自分でも店をやりたいと思っています。しかし彼の考え方は、料理人を雇ってきて自分はオーナーになる、というもの。日本人の店主は1日15時間とか働くけれど、外国人には難しいことです。やるとなったらすごく辛いと思っている。
 私も、そういう職人の仕事をすごく尊敬しています。だから、そういう舞台裏を見てみたいし、その厳しい生活や仕事ぶりも見てみたい。毎日同じ仕事を、朝から夜まで頑張っている。本当に面白い文化だと思います。そして、いつか本に著したい。もちろん、今の段階では表面上をさらうだけになってしまうので、職人に対して失礼になりますね。だから難しいと思っています。

 もうひとつ、コミュニティが形成される飲み屋の象徴のような『深夜食堂』というドラマがありますが、中国語バージョンもあって、中国人もよく観ています。店主や他の客との会話を通して小さな夜のコミュニティとなっているのが『深夜食堂』ですが、本当にそんな店が存在するのかどうか、上海の友人にはわからなかった。たぶん虚構だと思っていたでしょう。

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 でも実際には、そういう常連さんがいる小さい飲み屋がたくさんありますね。私も、外国人で日本語もそんなに上手くしゃべれないのに、飲みながら他の人と結構会話ができる。これも日本の飲食店の特徴だと思います。
 この二つの事象は、社会学者から見ると、ものすごく面白い。「なぜ西荻か」と問われると、「そういう個人経営の店が多いから」となります。もちろん日本全国、いろいろな土地にもあるでしょうけれども、これほどの都会の中で小さい規模の店が集まっている地域というのは、世界中でも珍しい。街中で、そういう生活をどうやって維持するのか、不思議ですよね。簡単には答えはわからない。だから、ドイツやアメリカ、フランスの学会で私が西荻のことを紹介すると、みんな興味を持ってくれます。
小さな店だからこそ生まれるコミュニケーション

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『深夜食堂』の話をしましたが、元来は、日本人は他人とコミュニケーションを取るのが上手ではない国民ですね。だからこそ、客同士の会話が生まれ得る小さな飲み屋が必要なのでしょう。西荻などによくある小さな飲み屋でこそ、客同士あるいは店主とのコミュニケーションが生まれるのです。
 さらに言えば、飲食店の主人がうまく話を取り持ってくれるという雰囲気もあるかもしれません。
 私は、西荻での経験がそんなに長くないので、私自身が常連だという店は、まだありません。だからあちこちの店に入るのですが、それでも様子を見てみると、店ごとに微妙な差があります。それぞれの店主の性格の違いがあって、賑やかな人のところには賑やかな雰囲気が好きな人が集まる。逆に、あんまりしゃべらなくてもいいという雰囲気のお店もあります。だから、自分の性格と合う店主がいることが大事だと思います。
 ところで、社会学的に見ると、狭い空間だからこそ、という要素もあると思いますね。
 例えばアメリカ人なんかは、飛行機で隣り合わせになるだけでもお互いにしゃべり合って、情報交換したりする。特別な空間が必要ないのです。どこでもコミュニケーションが成立する。しかし私が思うに、日本の社会ではグループが大事。例えば私のグループに誰かを入れようとしても、私個人の意見では決められない。新しい人を入れても大丈夫かどうか、みなの意見を聞かなくてはなりません。
 バーのような小さな空間、例えば5人しか入れないという制限があると、そのグループという感覚が作られやすいのではないでしょうか。個人の話ではなくグループとしての話になりやすい。たとえ店主とだけしゃべっていたとしても、他の客にもその会話は聞こえているので、コミュニケーションを共有できることになる。やはり空間が小さいからです。
 制限された空間だからこそ、安心感があって盛り上がることもできる。日本人が持つ「本音と建前」という、外国人の私たちから見ると面白い感覚も崩すことができます。行きつけの飲み屋では何でもありですからね。そういう飲み屋文化自体が本当に面白いと思います。
「飲み屋」の様変わり考
 小さな飲み屋の集まりといえば新宿のゴールデン街が有名ですが、私も昔から行っていました。けれど、ずいぶん変わりましたね。日本は今や観光大国ですから、新宿にしても吉祥寺にしても、海外からの観光客がかなり来ています。ゴールデン街も、20年前に私が日本に来たばかりの頃は常連だけの小さな飲み屋ばかりだった。「会員制」という札が貼ってある、みたいな。でも今は、観光客が来ている店が多いですね。そういう客が来ないと店自体がなくなるのかもしれません。
 昔と今では、若者のお酒の飲み方も変わってきています。昔は、ママさんがいて、男性客が飲みに来る。今は、若い女性も入りやすいようにガラスドアにして、店内を見やすくしたり入りやすくしたりしていますね。若い人は、そういう店に行きたがる。

 西荻もそうです。新しくできたお店は、そんなオープンな感じのところが多い。あとは、若い男性のバーテンダーがいる店。女性を集客するためですよね。若い人に本当にすごく人気があります。若い女性客が入っていると、男性客も入ってくるということで、もちろん私も入りたい……(笑)。

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 人気がある吉祥寺のハモニカ横丁でも、今では企業グループのお店が多くなっています。例えばVIC傘下のお店ですね。外見は小さなお店が多いように見えても、実はひとつの会社が経営しているという状況。それはそれで、西荻とは違う、ひとつの素晴らしいモデルだとは思います。西荻も、もしかしたらそんな状況になってしまうかもしれない。わからないですけれども、そういった変遷を見ていくのも面白いと思います。
「西荻町学」のこれから

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 私が西荻の研究を始めたときは、2年ぐらいで終わると思っていました。けれどもすでに3年を経て、でも知っているところよりも知らないところのほうが多い。街の中の小さい飲み屋さん、食べ物屋さんが本当に多いですよね。みんな自分の小さな世界を作り上げている点も面白い。最初は、もっと幅広い取材をしようと思っていたんですが、今は、食文化だけに絞ってやっています。
 私たちは、西荻町学を、感情を込めてポジティブな気持ちでやりたいと思っています。というのは、社会学者の本能的なものとして、社会の不平等などの問題を取り上げたい。例えば、レストランの中の男性と女性の役割の違いといった、ネガティブな部分に入り込んでいきがちになります。社会学的には、何でもない話から面白いことを見つけ出すことが重要とされるので、そういう意味では社会学者は、面白い人や文化人などにインタビューするのは面倒くさいと感じる。面白すぎる話は社会学にならない(笑)。ごくごく一般的なことを知りたいというのが社会学なんです。けれども、スタッフのみんなが一所懸命に取り組んでいるからこそ、感情がこもったポジティブなものになっているのだと思います。
 西荻町学のこれからですが、将来的には本にしたいと思っています。西荻だけではなく、西荻を見本にして日本の食文化を全般的に紹介したい。高級店やそういうお店の職人さんだけではなくて、テレビでよく見る有名シェフだけではなくて、幅広く紹介したいですね。だから、ファミリーレストランやチェーン店なんかも研究していきたいと思っています。せっかくの話も、Webページには書けないこともありますよね。でも本にするときには、そんな裏話もぜひ書きたいです。
 歴史からも、もっと深く迫りたいと思います。例えば柳小路は、売春防止法が施行されるまで青線地帯としても有名でした。そういった深いところまで掘り下げて、もっともっとこの街のことを知りたい。けれども、書いてあるものとしては残っていないですから、体験者から聞くしかありません。そうやって、この町のもっと歴史的なことを調べて書いていきたいと思っています。
 でも、私たちは外から来た人間だから、この町では社会的な深いつながりを持っていません。たまにお年寄りの話を聞きたいと思っても、仕事などもあって時間が取れないことも多い。昔の飲み屋街のことを知っているママさんのお店にも飲みに行って、話を聞きたいなと思います。

 そういう意味では、私たちの「西荻町学」と「西荻春秋」が協力できればいいかもしれませんね。私たちは同じ興味を持っているのだから、どんな形でも協力できれば、面白いことができるのではないでしょうか。

文:上向浩 写真:澤田末吉

取材日:2018年9月26日

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