はじまり

杉並区国民健康診査 50代に入り、年末年始に受けていた健康診断をインフルエンザ流行時期を避けて8月前後に変更した。人間ドックは経済的に難しく、杉並区区民健康診査、歯科健診、婦人科健診という習慣が出来た。職場の健診がない自営業者という自覚が芽生えた30代半ば頃だった。
  
 母は「健康診断なんか受けるとかえって病気になるわよ」と反対した。曽祖父は97歳、曽祖母は96歳を超えた。長生きしていた大伯母達が盆暮に「私たちの時代は健康診断なんてなくてもこの歳まで長生きしたわよ」というので、其れを無邪気に後ろ盾にしていた。父方の祖父は75歳で心筋梗塞、祖母は79歳で大腸癌で亡くなった。曾祖父母は晩年まで矍鑠としていたが、「先代は運が良かった」と言った方が祖父母は心安らかだろう。離れて久しい親への信奉と長寿の謳歌と嫉妬の混じった複雑な感情を若い嫁を前にして吐露しただけの話だ。
 祖母が亡くなった平成の初めにはまだ、癌は告知してはいけない病気という意識が強かった。医療技術の進歩と共に告知が自然な流れとなった。医師として病状の深刻さについて何処まで説明すべきか迷ったとしても、病名は直球で告げられたのだった。

 3、40代は仕事の責任も家族内の負担も重くなり、女性としての身体にも変化があってストレスを感じていた。20代より忙しくなったのだが、生理的現象により排卵日前後にイライラして怒りっぽくなった。妹と喧嘩したり母の一言に当ったりする。できる限りその時期に重要な仕事を入れないよう調整する事も覚えた。
 その頃、子宮筋腫が出来た。良性の腫瘍で子宮の外側だったから月経量が著しく増加するような症状もなかったが、それまで大病をしたことがなかったから、急に筋腫が成長すると悪い事を想像して動揺した。それが治療しなければ死に至る急性骨髄性白血病を冷静に受け止められている。自然には治癒しない退っ引きならない病気に罹ったことが頭にズシンと響いたが、2度と取り払う事の不可能な事実として腹に落とした。後ろを振り返る事は出来ない。ならば無理やりにでも前を見よう。
 婦人科で血液検査をして病気は発見された。発病からの進行が早い急性骨髄性白血病は症状としてみられた倦怠感が「怠け」ではなく体調不良だと気づいても、例えば心臓や肺等に問題があるのとは異なり、何処に相談していいかわからず迷っているうちに進行してしまいかねない。血液の役割や免疫への理解は一般的ではない。症状から白血病かも知れないと気づく事はできないし、免疫力が低下している危険性を認識出来る事もない。「偶然、8月に検診を受ける事にしていなければ」、「倦怠感や仕事の忙しさで先延ばしにしていたら」、「婦人科で血液検査をしていなければ」手遅れになっていても不思議では無かった。幸運の分岐点だ。

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